神のものは神に

イザヤ第45章1-7節     Ⅰテサロニケ第1章1-10節     マタイ第22章15-22節

皇帝(カエサル)のものは皇帝(カエサル)に、神のものは神に返しなさい――(21節)。

今日の“納税問答”(17節)ファリサイ派たちは、明らかな企てをもって、主イエスに二重の罠を仕掛けました(15節)。というのも、既に、“もしかしたらこの人がメシア(救い主)ではないか”と群衆が期待を寄せる中、主が、“まあ、税金は納めた方がいい”なんてつまらぬことを言ったら、たちまち人びとのこころは離れていく。他方、“ローマに税金を納めるのは律法に適わない”なんて、ひと言でも口にすれば、自分たちが手を下さずとも、ローマの警察組織がこの男をしかるべく処分してくれるに違いない、と――それが、罠です。

主イエスはもちろんその罠を、簡単に、見破られて、彼らの問いが欺瞞でしかないことを明らかにするように、まず言われました。“あなたの持っている銀貨を見せなさい”。“何だかんだ言ったってあなたのポケットに銀貨が入っていて、その銀貨をもって税金を納め、そのお金で毎日生活してるんだろう…!?

そういう現実に、まず気づかせようとしたのだと思います。そして続けて、“あなたが持っている銀貨、どんな肖像が刻んであるか。どんな言葉が書いてあるのか――。読み上げてごらんなさい”。

その銀貨には、ローマ皇帝の肖像と、「神の子 皇帝 ティベリウス」という言葉が、刻まれていたようです。私どもの言葉で言えば、「現人神」です。78年前の8月までは、天皇陛下のことをそのように呼び、その御真影への態度を間違えただけでえらいことになるという時代が、現実に存在しました。それとどっちがキツイか、これはちょっと比較するのも難しいでしょうけれども――そのような、現人神の姿と、銘が刻まれている銀貨を、毎日の生活で使わなきゃいけない。こういう仕方で迫害されたら、誰も抵抗できないと思う。それがないと生活できないんですから――。とりわけ、 “汝、己のために何の偶像も刻むべからず”という十戒を重んじる彼らにとって、自分のポケットに「神の子 皇帝 ティベリウス」なんていう偶像が入っていることは、どうしたって我慢できない。でも、それがないと生きていけないんです。

“皇帝のもの”というのは、ここでは銀貨のことでしょう。皇帝が皇帝としての務めを、任務を果たすために、どうしてもお金が必要なんだから、それは払った方がいい。そのことによって結局はあなたの生活だっていろいろ守られてるじゃないか。では、神のもの、神に返すべきものとはいったい何か――。

ひとつ、古くから、こういう解釈があります。デナリオン銀貨には、皇帝の像が刻まれている。それと同じように、神の像がハッキリと刻まれているものがある。それは我々自身です 創世記第一章には、神は、ご自分の姿にかたどって、人間をお創りになったと、そう書いてあります。

私どもの存在そのものに、神の姿が、しっかりと刻み込まれて、それは何をどうしたって、削り取ることはできない。――あなたの存在そのものが、全部ひっくるめて、神のものじゃないか――。何を取られたって、あなたは神のものなんだ――。そもそもこの世界に神のものでないものなんか一つもない。だから、もう何も恐れる必要なんかない。神のものは神に返そう… あなたも神のものなんだ。

この福音書の記事から、ここにいわゆる “政教分離”の原則が説かれている、と読み取ることは、たいへん大きな危険が潜んでいると思います。そういうところでこの主イエスの言葉を理解したつもりになってはいけません たとえば――かつて、ヒトラーという、たいへん力をもった独裁者がおりました。このひとも、教会の信仰を認めるようなことを口にして見せたんです。

イエスは、救い主。それはけっこう そういう宗教的なことも、大事にしないといけない。けれども、この世の次元のことでは、わたしの支配を受け容れることだってできるだろう。わたしにはわたしの役割があるんだ。皇帝のものは皇帝に返しなさい――と。しかし、それは、たいへんな間違いです。

このヒトラーの支配のやり方を、とてもよく受け継いだ、東ドイツというたいへん特殊な国家が、かつて存在しました。そこで、1989年――天皇の代替わりがあり、そしてまた東ドイツが崩壊した年――に語られた、ある牧師の説教を読み、わたしはこころ打たれるところが多かったのです(加藤常昭牧師)。

そこで東ドイツという国家が教会にしたことは、 “教会の信仰も結構だけれども、国のものは国に返さないと…”そういう理屈で、そりゃ信仰はプライベートなものなんだ、と突き詰め突き詰めたうえで、結局のところ、教会はたいへんな迫害に耐えなければなりませんでした。

それで、その説教にこういう話が紹介されてきました。加藤先生が東ドイツのある、若い、人たちの教会の集まりに呼ばれたときに、そこでも、いろんな若い人たちが、厳しい迫害のことを語っていた。教会活動を熱心にしていると、そもそも大学に入れてもらえない。就職しても、出世は望めない。蔑みの目で見られる。

それで、加藤先生はその若者たちに尋ねてみたそうです。「それなのにどうしてあなたがたはこんなに大勢教会に集まるの…!?」。――ちょっと沈黙があった後で、一人の少年が、応えた。

“教会に来ると、自分は初めて、人間として扱われることを知る。この社会ではもう、人間が人間らしく生きることができなくなった。けれども教会に来れば、自分は、自分が、人間であるということを、喜んで受け容れることができる… そうしたらほかの若い人たちも、“ああ…そうだ”“わたしもそうだ”と――。しかし、果たして日本の教会が、若い人たちに、それほどのことを言わせているだろうかと、加藤牧師は言うのです。

わたしは神のものなんだ… 神のものは神に返そう。

そこに、人間が人間として生きる、喜びがあるのです。そのような喜びを知った、たとえば東ドイツの教会の人たちはもちろん、国家に、税金を納めました。“わたしは神のもの、そしてこの国家も、どんなにゆがんでいるように見えたとしても、なお、神のものであり続けるんだから――”。

そのことを知る確かな平安が、皇帝のものを皇帝に返す、自由なこころを生んだのだとお思います。しかしそれはどんな権力者の横暴にも目をつぶるということは、意味しません。

翻って我々も、皇帝のものは皇帝に返しつつ、何よりもそこに、祈りが生まれるはずでしょう。“この国のため、その責任を負っている人たちのためにも、神よ、どうかこのひとたちを、あなたのものとしてください…

そのような祈りを最後まで貫かれたのはしかし、主イエス・キリスト、ご自身であったと思うのです。こののち主イエスは、その2、3日後には、十字架につけられて、殺されます。そこで主イエスが最後までなさったことも、神のものである我々を神に返すということでしか、なかったのです。主イエスが十字架の上で最後になさった祈りを想い起こしてもよいと思います(ルカ第23章26節以下)。

父よ、彼らをおゆるしください。父よ、どうか、この人たちを受け容れてください。あなたのものでありながら、あなたのものでなくなってしまっているこの人たちを、なお、あなたのものとしてわたしがもう一度、あなたにお返しししますから。どうかあなたのものとしてください――。

そのような主イエスの祈りを聴き取った、キリストの教会が、今ここに生かされていること自体が、大きな、神の出来事だと思うのです。わたくしどもも、ここで、自分が、神に愛され、神にかたどって創られた人間であることを、喜んで生きることができる。そのような教会が今ここに生かされているということが、どんなに大きな、証しになることかと、思うのです。