神の宝

列王記上 第3章5-12節 ローマ第8章26-39節 マタイ第13章31-33節、44-52節

 主イエスは今日、最後のところで、こうおっしゃいました“天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている”(52節)。一家の主人は、自分の蔵に入っているものちゃんと、承知しており、どれが新しくどれが古いか、ということはもうきちんとわきまえている、と。

 “古いもの”というのは、天の国について、あるいは神についての、古くからの受けとめ方でしょう。そして、“今日、わたしの三つの譬えがわかった人は、それとはまったく違う神のお姿、神への理解の仕方、それがそこに出てくるはずだ…と、そう、おっしゃったのです。神の国というのはほんとうに際立った、新しいものなのだ。今まであなたが思っていたのとはまったく違う、驚きと発見がそこにある…と。

 愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん 主イエスが、今日、ここでおっしゃっていることは、天の国・神のご支配のその中身です。当時のファリサイ派や律法学者のみならず、聴き手の誰もが“アーメン”と、すぐに分かる、古くからずっと考え・伝えられてきた内容、つまりただその素晴らしさとか、自分のあらゆるものを投げ打ち、総動員し、努力してでも手に入れるべきものだという価の高さを強調するのではなくて、その中身を、私たちに伝えておられるのです。今日の譬え、それを元の言葉で読みますと、

 天の国というのは、宝が畑に隠されているようなものだ――そういう書き出しなのです。

 畑に宝が隠されていて、それを見つけるとどういうことが起こるか、と。そして次は、天の国というのは商人が、あちらこちら動き回ってよい真珠を探している、そういうものだ――と。そういう言葉の流れ・文意・おっしゃり方なのです。そして、三番目のところでは、天の国というのは、網があってそれが海に投げ込まれて、いろいろな魚をかき集めてくるようなものだ、とそう言われているのです。

 愛する礼拝共同体、神の家族の皆さんつまり、天の国とはただ、宝です、真珠です、魚です、ということではなくて、誰かが動いて、それを得ようと、働いている。何かが起ころうとしている、だれかが宝を、良い真珠を手に入れるために、動き回り、奔走している走り回っている。魚を集めるために一所懸命網を打っている、そういう、動きを感じる、譬えの語り口なのです。

 〈天の国〉とは、ただある場所を表すのではなくて、神が生きて支配されるという、その有様を、示す言葉です。“神は生きておられる…” その神がこの世に来てくださって、この世をほんとうに治めてくださる、そのときに、何が起こるか。あるいは神はそこで、何をなさるのか。神がこの私たちのところに、来てくださるときにどういう決断と、行動をもって、歩まれるか――それを主イエスは、私たちに今、伝えてくださろうとしておられる。そしてそれは、従来人びとが考えていたのとは違うまったく新しい、神のお心であり、神の行動なのです。“つまり神は、私たち人間が思っていたのとはまったく違う、決断と行動を、そこで起こされるんだ…”――それが今日の、主イエスの譬え話の力点なのです。

 畑に宝が隠されていてそれが見つけ出されて、それを手に入れるために、すべてがすっかり投げ出される――それは、神がそうなさる、ということです。次も同じです。よい真珠を一所懸命探される。そしてそれが見つかると、すべてを売り払い、すべてを投げ出して、その真珠を手に入れる。そういうことを、神がしてくださる、と。誰にしてくださるか。私たちに対してです。宝とか、真珠――。神は私たちに対して、このように今、行動を起こしてくださっている… 愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん つまりここで言われている、宝とか、真珠、これは、天の国を指すよりはむしろ、この私たちのこと――。神の目には、わたしたちが宝であり、真珠であります。その宝が、この世で、罪にまみれて隠れているんです。さまざまな営みの中で、破れて、隠れている。罪の力に抑え込まれて隠れている。そういう宝を神は、この世で、ひたすらに探されるのです。

 創世記の、天地創造の出来事の中で、神は人を創られたときに、“極めて良かった(=美しい)…と、そうおっしゃった。その良い存在が失われている。神はまたそれを、見つけ出し探し出そうとしてくださる。そして、見つけたら、持っていたものをすっかり売り払って、それを手に入れてくださる――。まさにこれは、神が、御子主イエスを十字架につけて殺しておしまいになってまでも、私たちを救おうとなさった、そのお心と歩みを、表しているのだと信じます。

 私たちは果たして、“自分は良い真珠だろうか”と思うかもしれない。しかし、神は、真珠は何でもよい、というような思いで探しておられるのではなくて、“良い真珠はどこか…!?”と探しておられる。創造のときに、“これはとても良い”と、“美しい”とおっしゃったときのその想いで、私たち一人ひとりを“良い真珠はどこか…!?”と一所懸命探し求めてくださるのです。そして見つかったら、もう全部捨てて、手に入れてくださる それが、神の、私たち一人ひとりへの想いにほかなりません。

 そして最後の譬えでは、神が網を打たれて、私たち(=魚)を何とか手に入れようとなさる。けれど岸に引き上げてから座って、よいものは器に入れ、悪いものは捨てる、とおっしゃるのです。「座って」(48節)とは、吟味する、じっくりと見定め、見極めるということ。ここで躓いてしまうような気がするかもしれません。

 私たち、あるいはこの話を聞いた、イスラエルの人びと、そして弟子たちもまた――当時のいろんな戒めの中で、“自分はとても神の前で、良いとは言えない”という考えが、沁みついていたのではないだろうか。“神がこの私、この自分を、座ってじっくり吟味なさったら、いったいどうなるだろうか…”と思うのです。自分は、捨てられて焼かれてしまう魚ではないか――と。私たちはこのことを受けとめるときに、やはり主イエスの歩みを、最期まで見届けなければ、わからないのです。神は主イエスを通して、何をしてくださったか――。私たちを、良い器に入れて、主イエスの命を、棄てられたのです。

 ここでも神は、私たち一人ひとりを、ご覧になったうえで、“ああ…これは良い魚だ。では器に入れよう”というふうに、私どもを迎え入れてくださる。主イエスの十字架を仰ぐときに、そのことが、“分かる”のではないでしょうか――。神が私たち一人ひとりをその極みまで愛し抜き、救うために、果たされた犠牲。それがこの譬えの中にも、はっきりと語られています。

 ここに、誰もが、思いもかけなかったような、新しさがありました――。今まで自分たちが考えてきたのとはまったく違う歩みを、神はなさるのだ… 神は、すべてを売り払ってでも、私たち一人ひとりを取り戻し、“良い宝だ…”“良い真珠だ…”“良い魚だ…”と言って、ご自身の独り子の身を棄てながら、働き、歩き回り、私たちを救いのもとへと、取り戻してくださるのです。そこに神のご決断があり、歩みがあるのだと、主イエスは伝えてくださっている。今、この天の国の譬えを聴きながら、神にとって、この私が、何を置いても、見つけ出し、手に入れたい宝であることを、またそのように強く、愛されていることを信じたい。  

 神にとっての、このわたしの価の高さ、かけがえのなさ。そのことを信じるところから、歩み出したいと、こころから願います。