神の愛を殺すな!

イザヤ第5章1-7節     フィリピ第3章4b-14節     マタイ第21章33-46節

まず、今日の譬え話、これは私どもの信仰のひとつの基本的なことですが、“神(=主人)がこのぶどう園をつくられたのだ”ということです。であればそれはもう、すばらしいぶどう園に違いない。ここで、やはりあの創世記、天地創造の出来事を私どもは想い起こします。神が、お造りになったすべてのものをご覧になったとき、それはみな、素晴らしかった。きわめてよかった… と――。そうです 私どもが神からお預かりしているこの世界、それは、根本的に素晴らしいもの、豊かな実りが約束されたものなのだ…

そしてもう一つ大切なことがあります。この主人はひとたびぶどう園が完成すると、これを農夫たちの手に委ねた――。ご自分はまるでいなくなったかのように…それほどまでに農夫たちにすべてを、信頼して委ねてくださった。邪魔なぐらいふんぞり返って“お前こっち、お前はあっち…”と指示を出し続けるようなことはしないで、完全に委ねたということ。だからこそ、農夫たちは嬉しかった、誇りをもって、一所懸命働いたと思います。みんなで力を合わせ、汗水流して――そうしてゆくうちにだんだんとそのぶどう園が、見違えるようになってくる。“いやぁ我々も中々のもんだ。すばらしい実りじゃないか。なぁみんな…”そして、“さぁ、いよいよ収穫だ…”というとき、突然主人の使いがやって来て、当然のことですが収穫の分け前を求めたときに――誰だお前は… 何しに来た。お前に渡す分なんかない…

そう言って、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、ひとりを石で打ち殺した。そこで、前よりも多く送られた使いたちをも農夫たちは再び同じ目に遭わせた。そして最後に送られてきた、主人の愛する息子をこいつを殺してしまえば、すべては自分たちのものだと考え、殺してしまったというのは――これはもう皆さんお気づきだと思います――主イエス・キリストが神から遣わされて、けれどもその主イエスが、ついに十字架につけられ、殺されたという事実を、指し示しているのです。ほんとうに、むちゃくちゃな話です。

そのように語られるこの主イエスの譬え話において、何と言っても大切なことは、私どもに与えられているものはすべて、“神からお預かりしたものである”ということです。何一つ、自分のものはない。全部神さまからお預かりしているもの。家庭の生活も、学び舎での生活も、職場での生活も、みんなそうです。私ども人生そのもの私どものいのちそのものが神さまからお預かりしたもの。自分で自分のいのちをつくった人なんかいない。しかしだからこそそのように神さまからお預かりしたものを無責任に扱うわけにいかない。大事にするのです。この〈日本〉という国家だって、神さまのもの。神さまからお預かりしたもの――。悪い農夫たちが現れてこれは俺たちのものだ”といくら言い張っても、それは事実に反します。

自分が自分の主人であるなんて、実はそんなに苦しいことは他にない。これは神さまからお借りしている人生だ、と知ることは、自由になること、解き放たれることです。自分の人生にどんな局面が訪れたとしても、別に自分が全部の責任負わなきゃいけない訳じゃない。“自分の人生の責任者は神さまだ…” そう思うときに、やはり根本的なところで自由・解放の出来事が起こると思います、しかしそれは、無責任になることとは違います。一所懸命働く… むしろ神さまからお借りしているのだということを思うときに私どもは、ほんとうに責任ある生き方を始めることができると思う。しかもそこで、自由になるのです。

ただ、「ここに出てくるぶどう園の主人――次々と送った僕たちが傷だらけになって帰ってきて、何かおかしいとは思わなかったのか。しかも最後には、“使いだったから見くびられたのだ――。自分の息子を送ってみよう”なんて……そんなばかな。辛抱強いのを通り越して、少々この主人はどうかしてしまったのではないか」と、率直に言うひとがいます。“常識じゃ考えられない…”と。たしかにそうかもしれない。

愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん… わたしは思うのです。明らかにこの主人は この農夫たちを、それでも信じていたのです。この農夫たちのことを、この主人はそれでも大事にしたかったのですわたしの愛する息子を送ってみよう――。必ず敬ってくれるはずだ。

だからまた、ある説教者はこういうことを言います。「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」――“おや…いつの間にか、主人の目的が変わっているようではないか”と。

収穫を手にしたいとか、もはやそんなことじゃない。「この子なら敬ってくれるだろう」。

もう一度この農夫たちと、正しい関係を結び、美しい関係に戻りたい。戻れるはずだ… そのために今、わたしの愛する息子を、農夫たちの元に送ろう… 必ず彼らと、仲直りできるはずだ、仲直りしたい――。

この神の愛の深さ、真実の確かさに、私どもは、驚くべきなのです。そしてこの信じがたいほどの神の愛の前で、私どもの悔い改めも、また起こるのです。礼拝の度に、何度でも繰り返し繰り返し悔い改め続ける。いや日ごと夜毎に神へと帰ることです。この譬え話で言えば、この農夫たちが主人と、まっとうな関係を回復すること、そして、返すべきものを神へ返すことです。ぶどう園もその収穫も、何よりも、自分自身を神へと返す。そこに人間の、ほんとうの幸せがあります。いやむしろ、神ご自身がそのような幸せを求めておられ、私どもとのすこやかな関係を切望しておられる。驚くべきこと、まことに、ありがたいことです。

けれども少なくともこの譬え話では、そして事実、この神の願いは無視されました。最後に送られた独り息子は農夫たちの手によって殺されてしまい、この譬えが語られたほんの数日後に、そのような事実が起こってしまいました。〈主の十字架〉が立ったのです。そこで主イエスは問われ、彼らは答えます(40-41節)。けれども、主イエスは、その彼らの目をじぃっと見つめ――彼らを見つめて言われた(42節)。

それはとんでもない・ありえないと言った人たちに、“聖書に書いてあるではないか。まさにそのようなことがこれから起こるのだ”と主イエスは言われたのです。その意味が、聖書にこう書いてあるのは何の意味か、分かるかとお尋ねになったのです。「家を建てる者の捨てた石」(詩編第118編からの引用)。

何気なくじゃない。家を建てる専門家たちがよぅく吟味して、これは役に立たない… 神がいると邪魔だ… このぶどう園は自分たちのものだ、と――よぅく吟味し、そう判断して捨てたはずの石が、しかし再び用いられる。殺したはずの神が、もういちどよみがえる…『これが隅の親石となった』。

主イエス・キリストは、人びとの憎しみに負けることなく、およみがえりになりました。憎しみに憎しみをもって返すことなく、私どもに対するひたすらな愛のゆえに、神はこの主イエスを、よみがえらせてくださいました。そのようにして神はご自身が神であることを貫いてくださる。

この意味が分かるか。わたしがあなたの前に立っているその意味が分かるか。わたしがよみがえって今あなたと共にいる、その意味が分かるか――。およみがえりになった主がなお、私どもに問い続けておられるような気がしてならない。いま、こころから悔い改めて、正気になって、返すべきものを、神にお返ししたい。ここに、私ども人間の、ほんとうの幸せが、あるのです。