神の褒章

エゼキエル第34章11-16節、20-24節 エフェソ第1章15-23節     

マタイ第25章31-46節

〈主イエス・キリストの再臨〉。その日、そのとき、世界の主であられる方ご自身が、すべての歴史を総括なさり、世界の歴史が終わるそのときに――すでに天へと召されてしまった者たちも含めていったい、何千億人のひとがこのお方の前に集められることになるのか見当もつきませんけれども(31節)――大事なことはそういう途方もない場面において、なお私どもは、ひとりの責任ある人間として、主イエスの前に立たなければならない、ということです。そして、ついに、このわたしの番が来て、“いったい何を言われるか…”というようなときに、主がわたしに何と言われるかというと、“あのときはどうもありがとう”“あの時はほんとうに助かったよ”。そういうことを言われるって言うんです(35、36節)。そして、40節。

そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』。わたしの兄弟であるこの最も小さい者のひとりに、あなたは何をしたか、何をしなかったか――。それはつまり、わたしイエスのために、あなたは何をしてくれたか、何をしてくれなかったか――問われるのはただひたすらこのこと、それ以外のことはないと言われるんです。

ここで主イエスが問うておられること、それは「愛である」と、まずそういうことができるだろうと思います。最も小さい者ひとりのために食べ物飲み物を与え困っているときに助け、というような――しかし考えてみればこういうことは実は、“愛”と大げさに呼ぶほどのものでもないかもしれない。喉が渇いている人にコップ一杯の水を飲ませてあげたからといって、“わたしはこれだけの愛のわざをしたのだ”なんて大げさに言うことは、ないだろうと思いますし、実際にここで主イエスの前に立たされた人たちは、“その節は有り難う”と言われて、“えっ…!? いつのことですか”(37-39節)、そういう感想を漏らしています。

ところが、そういう小さなことが、世界の歴史の総括時に、ただひとつ問われることだと、言われるのです。これはたいへん驚くべきことで、神がいったい私どもの生活というものを、どういうふうにご覧になっているか。何が大事で、何が大事でないのか、そのことに改めて、気づかされるだろうと思います。問題は私どもが“愛に生きているか”と、“愛”と呼ぶほどでもないような、小さなわざに、徹することができているかという、ただそこのことなのです。ある神学者が、この40節について、こういうことを書きました。

ここで問題になっていることは、我々が、貧しいひと、惨めなひと迫害されているひとをキリストと同一視することではない。あのお方ご自身が同一視をなさるのであり、なさったのであり、なさるだろう、ということが問題なのである。――もう少し丁寧に言うとこういうことです。

つまり、辺りをキョロキョロ見回して“あっ、あそこに貧しいひとがいる、あれはイエス様だ、助けなきゃ”、“あっ、あそこにも助けなきゃいけない人がいる。あれはイエス様だ 助けなきゃ…”“うちの誰々は有り難うのひと言もないしほんと腹立つけどこれはイエス様なんだからがんばらなきゃ…”と、いうように――貧しいひとを我々がキリストと同一視する、我々がそれをするなんてことは、まったく問題にもならない。

そうじゃなくて、同一視をしてくださるのは主イエスご自身だ、と。あのお方が、最も小さなものであるこのわたしと、ご自分を同一視してくださっている――。“このひとの痛みはわたしの痛み。このひとの悲しみはわたしの悲しみ、このひとの孤独はわたしの孤独。このひとは、わたしの兄弟なんだ… と。

愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん…それは言い換えれば、この方は、神であられたのに、飢えていたときに食べさせてもらわなければ、ならないような、神となられたのです。喉が渇いていたときに、コップ一杯の水によって慰められなければならないような、そんな小さな存在になってくださったのです。難民であった(=旅をしていた)ときに宿を貸してもらわなければならず、裸のときに着せ、病気の時に見舞い、牢にいたときに訪ねてもらわなければならない神――この最も小さい者と、ご自身を同一視してくださったというのは、そういうことです。いったいだれが、そんな神の姿を想像することができたでしょうか。

主は、そこまで私どものことを、重んじてくださっています。私どもが、小さかったからです。ほんとうにそうだと思います。私どもも小さかったのです。その小ささのゆえに、私どもは躓いたり、失敗したり、何よりも、愛において挫折するんです。なぜかというと、「わたしたちは生まれつき、神と隣人とを、憎む傾向にある」(『ハイデルベルク信仰問答』)からです。これは、かなりキツイ言葉ですし、“まだ若いくせに偉そうに”と思われるかもしれませんが、年を重ねれば重ねるほど、この信仰問答の言葉はほんとうだ、と素直に、素朴に思わされています。「わたしたちは生まれつき、神と隣人とを、憎む傾向にある――」。

私どもが“小さい”っていうのは、体が弱いとか、出来が・要領が悪くて不器用だとか、お金がないとか、いろんなことを考えることができるかもしれませんけれども、結局のところ私どもの小ささというのは“わたしたちは生まれつき、神と隣人とを、憎む傾向にある”という、この一点に尽きるのだと思うのです。

そしてそのために私どもは、どんなにお金を持っていたとしても、飢えるんです、渇くんです、孤独になるのです。けれどもそのような私どもが救われるために、あのお方が、わたしの兄弟になってくださることしか、なかったのであります。

このひとの悲しみは、わたしの悲しみだ。このひとの貧しさは、わたしの貧しさだ――と、最も小さい者であるこのわたしと、ご自身とを同一視してくださった。このお方の恵みによって、私どもは立つのです。

この“小ささ”というのは、“助けてもらわなければ生きていくことができないということだ”と、あるひとは単純にそう言いました。ほんとうにそうだと思います。しかも私どもはしばしばそのことを忘れます“神の助けなんかなくても生きていける”と思い込んでいます。“そうじゃない、あなたは神の助けがなかったら、あの主イエスの十字架がなかったら、立つことさえ、できない人間ではなかったか――”。

私どもは、ほんとうは、人のために苦しむことのできない存在です。“どうして自分がひとのために苦しまなければならないか…”と思い込んだときに、これに耐えることは容易ではありません。けれどももしその苦しみに対して何かの手応えがあれば、案外私どもは、その苦しみに耐えることができるのです。だがしかし私どもが、ほんとうの意味で苦しまなければならない、ほんとうの意味で自分を犠牲にしなければならない、そういうときに“いや、お金なんかもらわなくたっていい”、“感謝なんかされなくたっていい”“誰にわかってもらえなくてもいい”。けれどもそのように私どもが自分を犠牲にしたことが誤解され責められ悪口を言われるようなことがあったら――さすがに私どもは参ってしまうだろうと思います。

けれども、主イエスが十字架につけられたとき、誰も“有り難う”なんて言いませんでした。十字架につけられたイエス様のことを、誰も褒めることはありませんでした。だからこそこのお方の苦しみは、ほんとうの苦しみであり、しかもそれは、私どもの苦しみとひとつになるような苦しみと、なったのであります。

どうか、この主イエスの苦しみ、そしてこの主イエスの確かな祝福が、皆さん一人ひとりの生活を、その小さな愛のわざを、しっかりと支えるものとなりますように――。