誰のために生きるのか

ゼファニア書第1章7節、12-18節 Ⅰテサロニケ第5章1-11節  

マタイ第25章14-30節

神を信じて生きる、私どもの信仰生活というのは、そこにいつもつきまとう、根本的な試練があると思います。それは要するに、“主イエスが今ここにおられない”ということです。もちろんここに集っておられる皆さんは、たとえ目には見えなくても“神はいる(インマヌエル)”と信じ、この礼拝に与っておられます。もちろん一方では確かにそう言うことができる。けれども、“わたしがいない間よろしく頼むよ”と言って、主人からタラントンを預けられたというこの譬え話から素直に聴き取るならば、やっぱり主イエス(=主人)は今不在なんです。留守なんです。姿も見えなければ、声も聞こえません。

必ず帰ってきてくださるはずの、主イエスはしかし、今もまだ不在なんです(現に我々教会は未だ、主の再臨を、もう二千年待ち望んでいる)。けれどもそこでこの譬え話が教えてくれる、ひとつのことは、

確かにそうだ…私どもの主人は今留守だ…。けれども、神の姿は見えなくても、神の財産は、ちゃんとここにある よく見なさい。あなたにも、あなたにも、神の財産が預けられているではないか――。

それは言い換えれば、皆さんの手に託され、委ねられたタラントンこそが、神が生きておられることを示す、ただひとつの、確かな証拠であると、そう言ってもいいのです。神は私ども一人ひとりに、豊かな財産を与え、神のために働くようにと、その仕事を任せておられます。その間主イエスは、安心して不在になれる。私たちが、主イエスの代わりに働くからです。しかしそれはほんとうに驚くべきことで、もしこれに驚かなかったら、それは私どもの信仰がどんなに鈍ってしまっているか、ということでしかないと思います。

この神のタラントンを、まさに神からのタラントンとして見つめ直すことがない限り、私どもはいったい自分が何のために、誰のために生きているのか、結局は何にもわからない、ということにしかならないと思う。私どもは誰のためでもない、この私にタラントンを預けてくださった、主のために生きるのです。

主人の僕への言葉の中に、『お前は少しのものに忠実であったから』とあります(21、23節)。

愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん… アーメン まったくその通りではありませんか。この主人の全財産に比べれば、五タラントンだろうが五万タラントンであろうが、ごくごく小さなものに過ぎないことは明らかであります。私どもの人生だって、そういうものだと思うのです。どんなに豊かな人生といえども、しかし神の目からご覧になったら、どんなに小さなものか――。

詩編第90編に、こういう祈りがあります。“千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。あなたは眠りの中に人を漂わせ/朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい/夕べにはしおれ、枯れて行きます” (4、5、6節)――“人生なんてそんなもんだ…こんな小さなものだ”と、言おうと思えば言える、嘆こうと思えばできるのかも、しれない。

しかしわたくしは思うのです。だからこそこの最初の二人の僕は、主人からいただいたタラントンに、忠実であり続けることができたのではないでしょうか。自分の手に委ねられた、五タラントンあるいは二タラントンというような財産をじぃっと見つめながら、“このタラントンは自分のものじゃない。神のものだ…“こんな自分にこれほどのものが委ねられている”ということに、恐れを抱きつつ、正しく気づいたときに、そのタラントンを用いて仕事をしていたときにも、“自分はごくごく少しのものに忠実であっただけだ…”。しかしそこに人生を生きる誇りがあり、喜びがあったと思います。

上で紹介した詩編第90編の中に、こういう祈りもあります(12節)。

わたしの生涯の日々を、正しく数えることができますように。知恵のあるこころをお与えください――。

我々の生涯を、間違った仕方で数えちゃいけない… 生涯の日を正しく数えることができるように。

そういう私どもがしかし、もしも自分の人生を正しく数え、私どもに与えられたタラントンを正しく、数えることができるならば、それがすでにこの世界にあって神の愛の確かなしるしになるだろうと思います。

しかしこの最後の僕は、主人から預かった一タラントンを、正しく数えることができず、しかもその預けられた自分自身のことをも、正しく、受け容れることができませんでした。“たった一タラントンなんて…”と、ひがんだのかもしれません。この最後の僕が見事に数え損ない・忘れてしまったことは、主人から託された、自分の手もとにある一タラントンは、自分が、神に愛され、信頼されているからこそ預かっているのだという、根本的な事実のほかありません。これを土の中に埋めてしまったというのは、それは結局、自分のいのちそのものを、生き埋めにしてしまったことに等しいのです。

この僕には、能力が足りなかったんじゃない、やる気が無かったのでもないのです。そうなくてこの僕のほんとうの問題は、主人とのこころの繋がりがまったく歪んでしまっていた、ということでしかないのです。“あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたよ”と、この僕の言葉を聞いたときに(24、25節)、そんな言葉を最後に聞かされて、この主人の悲しみはどんなに深かっただろうかと思うのです。“”そんな悲しいこと言うなよ…

あなたにも、あなたにも、タラントンが預けられているんだ――。それをどうか、わたしとの愛の関わりの中で受け取って欲しい。何も恐れることはない、精一杯それを用いなさい。わたしの愛の中で――。

このタラントンとは何か、ということについて、古くからあるひとつの解釈は、私どもに与えられた“タラントン”という言葉でしか言い表すことのできない莫大な恵みを、神は私どもに委ねてくださっている。それは、神の言葉のことだ、イエス・キリストご自身、神の恵みの福音のことだ――そう言うのです。

どんな人にも、神は、恵みのその言葉を聴かせてくださる。そこで私どもは生きるのです。

しかもそこで我々が忘れてはならないことは、このような譬え話をお語りになった主イエス・キリストご自身が、けれどもこの直後には、十字架につけられ、殺されるということです。最後の一タラントンの僕のごとく、神の恵みを殺し、土に埋める、というような、そういう過ちを、我々人間は、もともと抱え込んでいた、ということです。そこに実は私どもの根本的な問題があったのです。そこに実はあの一タラントンの、主人とのこころの捻れも、すでにそこにあったのです。けれどもそのように私どもが、すぐに殺してしまう神の恵みそのものである、主イエス・キリストを、神が死人の中からおよみがえらせになったときに、そこでまさにタラントンが、まさに、神のタラントンであることが明らかになりました。死に打ち勝つ永遠の価値を持つものであることが明らかになりました。それが、私どもに委ねられているのです。

どんなに大きな者にもどんなに小さな者にも、その人だけに神が与えてくださったものを喜びながら、しかもそれを主人の喜びの中で喜ぶことができる(21、23節「わたしと一緒に喜んでくれ」)。まさにここに私どもの生きる、誇りと、喜びがあるのです。今、“主イエスよ、来てください”と祈りを新しくしながら、確かな思いで、自分の生涯の日々を、正しく数える者でありたい――。こころからそう願います。