賢く待とう

アモス書第5章18-24節 Ⅰテサロニケ第4章13-18節  マタイ第25章1-13節

わたくしがもっとも恩恵を受けた説教者に、竹森満佐一という牧師がおられます(元 日本基督教団吉祥寺教会)。その竹森先生の説教集の中に、こういう言葉があります。わたくしが折にふれ想い起こす言葉で、“人間の生活を決定的に定めるのは、その人が、何を望みとしているかということだ――。

と、そう言うのです。説教集の中から少し、紹介します。

人間の生活を決めるものは、“何を望んでいるかということである”。このことはあまり人が考えないのではないでしょうか。人間は、少しでも希望があれば生きられると、言います。希望がないのはまさに絶望であります。しかし何を希望するか、ということで、自分の生活が変わる、とは、あまり考えないのではないでしょうか。“何を希望するか”ということでよくわからなければ、“何がほしいか”ということでもいいでしょう。何を欲するかと言うことで人が変わる、人相までも変わる、ということなら、よくわかるはずであります。お金が欲しい人は、そういう顔つきになってしまうでありましょう。野心家はそれらしい顔つきになるに違いありません。もし、そうであるならば、望むものが変われば、生活も変わるはずであります。

わたくしは、今よりもっと若い頃にこれを初めて読んで、実に“ギクッ”としながら、“いったい自分は何を欲しがっているんだろうか、将来において究極的に何を望みとしているんだろうか。どんな人相になってしまっているんだろうか――”ということまで、考えました。“男は40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持て”などと言われることがありますが、あながち、間違いではないかもしれません。

そしてわたくしはここで、今日の主の譬えに登場するおとめたちのことを思うのです。これは、第24章から第25章全体を貫く〈主イエス・キリストの再臨〉ということが主題となっているわけですが――彼女たちは、花婿の到着を今か今かと待ち望みながら、いったい、どんな顔つきになっていたか、と。

ぐうぐう眠ってしまいながらながらも(十人が十人とも)、その最後の希望は、〈花婿が来られる〉という、そのひとつのことでしかありませんでした。――そうだ、わたしたちは、花婿イエスを待っている

そのことがこのおとめたちの生活を根本から規定しておりましたし、その希望が、このおとめたちの顔つきにも、輝くように、表れていたに違いないと、わたくしは、そう思うのです。

しかし、愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん… これは、私ども一人ひとりの、話なのです。二千年に亘る、私どもキリスト教会の姿が、ここに、鮮やかに描かれているのです

どの注解書にもそんなことが書いてあったわけではありませんが、わたくしは、このおとめたちが、独りぼっちではなかった、ということは、ほんとうに大きな慰めを私どもに与えるものだと思います。主に招かれた兄弟姉妹と共に、手を取り合って励まし合って、一緒にイエス様を待ち続けるんです。“イエス様どんなお姿でいらっしゃるんだろうね…”なんてことを、このおとめたちはうきうきして語り合いながら、当然眠くなったら何にも頑張る必要はない。主イエスを待ちつつ、安んじて、眠りにつくことができたのです。しかしそれは少なくとも「愚かな五人のおとめ」たちの眠りとは、どんなに違っていたことか、と思います。

この、十人のおとめたちの決定的な分岐点は、そのうち五人のおとめたちというのが、“灯火を持ちながら油を用意していなかった”。ただその一点に尽きます。“やる気あるのか…!?!” “いったいどういうつもりでここにいたんだ”と言いたくなりますけれども、人間的な見方からすればおそらくこの十人のおとめたちの生活の姿というのは、他のことでは、ほとんど何の違いも、何の優劣もなかったと思います。しかしこれに対する賢いおとめたちの反応はたいへんつれないもので、“いや、あなたの分まではない。今からでもお店に行って買ってきなさい”と――。いやいやいやいや、そこでこそ助け合うのがイエス様の教えでしょう”というような、疑問も生まれるかもしれませんけれども、結局、最後の最後に問われることは、

あなたは誰を待っているのか――と、そのことだけであったというのです。

話としてはひじょうに単純で、結局この愚かな五人というのは本心では花婿のことなんか待っていなかったと、そういうことでしかないのです。眠り込んでそのまま自分が何のためにここにいるのか忘れちゃった。“いや、そんなに呑気な話があるかな…”というのは人のことだからそう思うのであって、それはほんとうに私どもの人生を決する、根本的な問題であって、その場しのぎで他人の油を借りるというようなことでは、解決する問題ではなかったのです。

あなたは花婿を待っているのか。花婿が来るのをほんとうに望んでいるのか、それとも他の誰かが来ることを望み、何か別のものを待っているのか――。

お金のことしか考えていない人は、夢の中でだって、ギラギラとした目つきで、お金のことを追い続けているに違いありません。人に褒められることだけを、望みとしているような人間は、夢の中でだって、人に批判されることを、恐れ続けているに違いないのです。

ところがこの賢いおとめたちは、眠ってたって、自分たちが、花婿イエスを待ち続けている人間だということを、忘れることは、なかったと思うのです。眠りながらもなお、主イエスに対して目覚めた想いに生きることができたと思うのです。イエス様の夢でも見たかも、しれません。

そういう賢いおとめたちの顔つきが、変わるというのは、むしろ当然のことだと、思います。この教会に生きる私どもが、互いに手を取り合って、励まし合って、“わたしたちはただ一人の主、イエス様を待つんだ”という、その希望に生きることができるなら、そのために、私どもの顔つきまでも変わるということが起こるなら、それだけでも、どんなに大きな証しになるだろうかと思うのです。

だからこそ、私どももこのお方を愛して、このお方を待つ――。私どもの生きがい、この世界の望みというのは、結局のところこの一点につきる。もし再臨がなく、これがただの作り話・ただの嘘っぱちであるならば、この世界のどこにほんとうの希望を見いだすことができるかと、思うのです。右を持ても左を見てもこの世界のどこに希望があるか、と――。そう思うのはわたくし一人だけではないと思います。

私どもも、主イエスから問われています。

あなたがたはわたしを待つのか。わたしを信じるのか。それとも、別のものに望みをおくのか――

今、ここにも、主イエスに愛され、招かれて、灯火を掲げて生きる群れがつくられています。花婿キリストを待つためです。そのような私どもの存在が、言葉が行いがその顔つきまでもが、この世界にとってもどんなに尊い証しであるかとわたくしは思うのです。“その灯火を消すな、油を切らすな”と――。

こころを込めて、このような譬え話を語られた主イエスの思いに、もう一度目覚めた思いで、気づかせていただきたいと願うのです。