黄金のことば

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(第3章16節)。

 愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん この 言葉は、“黄金の聖句(ゴールデン・テキスト)”と呼ばれるものの中の、最たるものです。皆さんも、聖書を開きながら、気になるところ・大切だと思われるところに、赤い線を引きながら読む、そういう読み方をすることがきっとあるでしょう。しかし、これは もう、赤い線では間に合わない。今日ですと、コンピュータを使って文章を書くときに、いろいろと文章を色分けして書くこともできます。けれど、コンピュータの色のなかにも、どんぴしゃりで、“金色”というのはない。

 金を自由に、用いることのできる、それだけ自由な人びとが、実際に、自分にとってとても大切な、命にかかわる大事な言葉だと思うものを、聖書から書き抜いて、自分が生活をしている家の壁に、黄金で、書かせた。そういうことが伝えられています。今日でも、ヨーロッパの教会堂を訪ねますと、――金そのものを使っているのではないかもしれませんけれども――あれ…金で書いているのかな、と思うような 輝いた文字で、礼拝堂の壁に貼り付けているというか刻み付けているというか…鮮やかに、表しているところも、あります。礼拝・祈りのたびごとに、その教会堂を訪ねるたびごとに、そこで、読む言葉です。

 教会の改革を致しましたルターは、この、第3章16節を、〈福音のミニアチュア〉と言いました。「ミニアチュア」というのは、中世に、聖書の 写本がたくさんつくられましたときに、その写本の中に散りばめられている、小さな 挿絵。――これは、ほんとうに小さいのですけれども、それだけ大変よく、丁寧に、まさに 精巧に、聖書の物語を 書いている。そういう絵を皆さんもご覧になったことがあるでしょう。小さいのです。しかし、そこに、聖書の言葉が凝縮して、絵として記されている。ルターは「これは絵ではない文字だ。文字だけれどもここに福音、つまり、私どもに与えられた、救いの喜びは何かということが、最も優れたかたちで凝縮されている」。――そう、受けとめたのです。

 まず、注目したいのは、神はその独り子をお与えになったほどに、あなたを愛された、わたしを愛された、とはいきなり書いていない。“世を”愛されたと、記されていることです。

 もちろん、私どもも、一人ひとり、この、世に属するものです。私どもも属している、この“世”。まず、神がお造りになった人間全体、ということができるでしょう。そしてまたさらには、この人間が生きている世界全体、と理解することも、間違ってはいないでしょう。神を信じないものも含んでいるのです。民に敵対する者も、そこにいるのです。その世を、愛し抜くために、神は、その独り子を、お与えになった。

 毎日、私どもが、生きていくときに、とても大切なことは、この世を、そして、その世に、属して世に生きている、自分自身を どのように 見るかということです。どんな目で見るか、ということです。愛のまなざしで見るか。憎しみの眼差しで見るのか。尊ぶ思いで見るのか。軽蔑する思いで見るのか。それで、この世に生きる私どもの生き方が変わります。一歩一歩の足の踏み出し方が違います。

 神は、世を、愛された。あなたが生きているこの世を、愛された。この世を生きている者として、あなたを愛していてくださっている。独り子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

 日々生きていくときに、私どもにとって大切なことは、“望みを失わない”ということです。“望みを失わない”ということは、私どもの将来が、結局は滅ぶよりほかないという、絶望の思いと戦う、ということです。何かとんでもない事件が起こると、それだけで私どものこころはぐらついてしまいます。暗くなります。暗くなるというのは、先が見えなくなるということです。先が見えないときに私どもが思うのは、結局、滅ぶよりほかないのではないか。死ぬよりほかないのではないか。すべてが死滅するよりほかないのではないか。“永遠の命を得る”などとあるが、永遠などというのは、私どもには関係がないのだ。“永遠に神のみ前にあって神と共に生きる… ”――そんなことは私にとっての現実などにはなり得ない。先が暗いときに、今生きているひと時ひと時を、大切にして生きる、これを 愛して生きるということは、とても難しいことに、なります。そのときに、この福音書の言葉は言う。私どものこころに、語りかけるのです。

 神は、この世を、愛された。今も愛しておられる。あなたの 一歩の歩み、あなたが生きているこの世界は、この 神の、愛の御手のなかにある。この神の愛は、変わることはないし、裏切ることはない。何故か。その独り子をお与えになった愛であるからだ…

 ここでは、“イエス・キリスト”という言葉は使いません。“独り子”――。それでよくわかる。よくわかるだけではない。“独り子”という言葉には特別な思いが込められている。神にとって、かけがえのない、ご自身そのものにほかならない御子であるということです。その御子を、お与えになった。お与えになったとは、この世のものとして“譲られた”というほどの意味が、潜んでいます。つまり、この世に属するものと、してくださった。私どもの、仲間にしてくださったということです。しかも、さらには、神が、お渡しくださったその独り子を、この世はいったいどうしたのか。喜んで受け容れたのか。そうではなくて、これを、殺した… この世にとっていらないものして、殺した。滅ぼした。それだけの意味が、ここに込められています。

 だから、多くの人びとが、このお言葉を、こころを動かして読んだ… 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を、犠牲してまで、この世を愛された。この世は、その愛に報いることがなかった。それでも、神はしぶとく、その愛を貫かれて、この世に生きる者の中に、独り子が死んで、およみがえりになったことを信じる者たちを、ひとりふたりと、つくり出してくださった。そしてそこに、永遠の命を植えつけてくださった。――独り子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

 枯れて、滅びてゆくほかないような、荒れ果てた野を、神が、耕してくださって――その愛をもって耕してくださって――独り子という、種をそこに“植えつけて”くださった「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ第12章24節)。まさにそのように、独り子の命がこの世に、植えつけられることによって、この世は変わった。私どもが生きている世は変わった… もう、滅びの世ではないのです。この世は変わった… 私自身も変えられた。今、共にこの言葉を聴き、この短い御言葉にこころを動かしておられる皆さんは、ここで、既に、変えられ始めている、変えられているのです。もう滅びることはないのです。――神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。この私を愛された。あなたを愛された。ここに、神の愛がある。独り子を信じる者、わたしが、あなたが、ひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ここに、神の愛がある。神の、決して消え去ることのない、神のみわざがある。これが私どもを生かし、教会を生かし、そして、世を支えている、神の福音の、真理なのです。