やむこい
出雲弁で「やむこい」というのは、「やめらやー」と同じ意味です。
「やめらやー」は標準語で言うと、「やめましょう」となります。
「いまやってることをやめよう」と言いたい時に、使う言葉です。
「もうやめーわ」は、「もうやめます」
「もうやめーわね」は、「もうやめますね」
「いまやっちょーこと、しちょーことやめらやー」
新改訳聖書では、詩編46編10節は次のように訳されています。
「やめよ。
わたしこそ神であることを知れ。
わたしは国々の間であがめられ、
地の上であがめられる。」
詩編 46編10節
「聖書の神こそが、本当の神であることを知りなさい。」
と言われているのですが、その前に「やめよ」と言われています。
口語訳聖書では、「やめよ」を「静まって」と訳しています。
「静まって、
わたしこそ神であることを知れ。
わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、
全地にあがめられる」。
詩編 46編10節
新共同訳聖書では、同じ節が次のように訳されています。
「力を捨てよ、知れ
わたしは神。
国々にあがめられ、
この地であがめられる。」
詩編 46編11節
「力を捨てよ」というのは、ほかでもない自分自身の力ということになります。
ですから、「やめよ」も「静まって」も「力を捨てよ」も
いずれにしても、自分でやろうとしていることを一旦やめる
自分の力に頼らず、自分の行動を一旦そこで中断して置いておく
という意味合いになってくるでしょう。
やめて何をするかと言えば、「主こそ神であることを知りなさい」なのです。
私たちは、自分で何かをしようとする前に、
ひとまずそれを置いておき、主の前に静まって
主こそわたしの神であることを、覚えるべきなのです。
自分の考え・自分の力・自分の感情で、突き進んでしまわないよう
自制心をもって、ブレーキをかけるべきなのです。
主こそ、そのみむねを成し遂げられるお方なのです。
【今日の聖書】
主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。
主はこの地を圧倒される。
地の果てまで、戦いを断ち
弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
詩編 46編9〜10節
落とす、放棄する、リラックスする、控える、見捨てる、手放す、静かにする