ファリサイ派の人々は本心を隠していた
1.ファリサイ派の人々や律法学者たちの本心は外見とは違った
預言者ヨナの本心は、非常にわかりやすかったですが、
ファリサイ派の人々や律法学者たちの本心は、隠されていました。
彼らの行動は、一見立派に見えていたからです。
しかし、イエス・キリストは彼らの本心を明確に見抜いておられました。
律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。
だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。
マタイによる福音書 23章14節
「見せかけの長い祈りをする」と指摘しています。
信仰深く祈っているようでも、それは見せかけだというのです。
本心は別の所にあって、祈りの言葉とはかけ離れているというのです。
律法学者たちとファリサイ派の人々、
あなたたち偽善者は不幸だ。
杯や皿の外側はきれいにするが、
内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
マタイによる福音書 23章25節
外側と内側で全く違うというのです。
外側はきれいに見せているが、心の内側は強欲と放縦で満ちているというのです。
外見はきれいなようでも、本心は「非常に汚い」と指摘しています。
2.イエスは、まず内側をきれいにしなさいと命じられた
「外側は善人に見えて、心の中はまったくそうではない」これが偽善です。
それをイエスは、的確に指摘しているのです。
だから内側をきれいにしなさいと、指示しています。
ものの見えないファリサイ派の人々、
まず、杯の内側をきれいにせよ。
そうすれば、外側もきれいになる。
マタイによる福音書 23章26節
ファリサイ派の人々や律法学者たちは、
自分たちの内側の汚さを、隠していたのです。
それをイエスは、暴かれたのです。
律法学者たちとファリサイ派の人々、
あなたたち偽善者は不幸だ。
白く塗った墓に似ているからだ。
外側は美しく見えるが、
内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
このようにあなたたちも、
外側は人に正しいように見えながら、
内側は偽善と不法で満ちている。
マタイによる福音書 23章27〜28節
「白く塗った墓」とまで、言われているのです。
「外側は美しく見えるが、
内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。」というのです。
凄まじいばかりの指摘です。
それほど、彼らは、外側は人に正しいように見えながら、
内側は偽善と不法で満ちていたのです。
そして、イエスは単に彼らの心の内側の汚さを指摘するだけではなく
その解決方法も提示されているのです。
「心の内側をこそ、きれいにしなさい」と勧めているのです。
3.徴税人の祈りは本心からの祈りだった
もう一つの話が、聖書に出てきます。
ファリサイ派の人と、徴税人の祈りの話です。
「二人の人が祈るために神殿に上った。
一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
ルカによる福音書 18章10節
3.1 ファリサイ派の人の祈りは本心を隠した祈り
はじめにファリサイ派の人の祈りが出てきます。
ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。
『神様、わたしはほかの人たちのように、
奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、
また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
わたしは週に二度断食し、
全収入の十分の一を献げています。』
ルカによる福音書 18章11〜12節
要は、「私は立派に主に従っています。
悪いところは何一つありません」と、祈っているのです。
この人も罪人でしたから、そんなことはあり得なかったのです。
でも、その本来汚れていた心の中の、本心は隠しておいて
表面的なところだけを羅列して、自分を正当化しているのです。
本心を隠した祈りだったのです。
3.2 徴税人の祈りは本心からの祈り
ところが、徴税人の祈りはどうだったでしょうか?
「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。
『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」
ルカによる福音書 18章13節
神のみ前に自分自身の罪を認めて、神に罪の赦しを乞うているのです。
徴税人の祈りは、自分自身の心の内側の汚さを正直に告白しているのです。
本心からの祈りだったのです。神に義とされたのは、この徴税人でした。
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、
この人であって、あのファリサイ派の人ではない。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ルカによる福音書 18章14節
3.3 その立派な祈りの言葉、本当は違うでしょう?
本心は罪で汚いのに、きれいな振りをして本心でないことを祈っていたのが
ファリサイ派の人でした。自分は立派で正しく優秀だという思いで、祈っていたのです。
彼らは、徴税人のようではないことを感謝すると言っていましたが
その徴税人こそが、神に喜ばれる本心からの祈りをしていたのです。
神のための働きを一生懸命していても、心が伴っていなければ虚しいのです。
本音が神に背いたヨナと一緒であるなら、それは神に喜ばれないのです。
本心とはまるで違う、美辞麗句で祈るのが祈りなのではありません。
つたない言葉であっても、本心で祈るのが祈りなのです。
むすび.汚い自分をそのまま神の前に差し出して祈る
祈りは本心を隠して、信心深い振りをして祈るのではなく
自分のありのままの姿をさらけ出して、祈るものです。
徴税人のように『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と祈るのです。
ファリサイ派の人のように、汚い自分を隠して見せかけで祈ってはならないのです。
『神様、わたしはファリサイ派の人のように、
自分を正しく見せかけるような、そんな祈りをしていないことを感謝します。』
という祈りが、まさにファリサイ派の人がしていた祈りなのです。
神に喜ばれない祈りなのです。
本心から祈り、罪で一杯の心の内をさらけ出して神の前に悔い改めて祈るのです。
【今日の聖書】
主よ、わたしの祈りをお聞きください。
嘆き祈るわたしの声に耳を向けてください。
詩編 86編6節