同じことをしていても
1.一見普通の行為に見えてそれが罪の場合がある
旅行をする時、特急電車で出かけることもあります。
2024年の4月から新しくなった「特急やくも」には、自由席がありません。
グリーン車を含む、指定席しかありません。
ですから、「やくも」に乗る場合は指定券を買って指定席に座ることになります。
たとえば「特急やくも」の指定席に座って、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいるとします。
もし自分が座っている席が、他の人の指定席であったらどうなるでしょうか?
それは他人の席を占有しているので、間違っていたとしても罪になります。
本来そこに座るべき人がやってきて、怒られたとしても仕方ありません。
たとえ故意でなくても、その行為は他人のものを占有する罪だからです。
また自分の飲んでいたコーヒーが、隣の人の買ったものだったとしたらどうでしょうか?
間違えて、隣の人のものを自分のものだと勘違いして飲んでいたとしても
故意でなくても、これも罪になってしまいます。
また読んでいる新聞が、てっきりフリーペーパーだと思ってお金を払わずにとってきたのに
実際は有料の新聞だったとしたら、どうでしょうか?
これも、罪になります。
2.外見は同じでも罪であったりそうでなかったりする
「指定席に座って、コーヒーを飲みながら新聞を読む」という行為でも
自分の指定席に座って、自分が買ったコーヒーを飲みながら
きちんとお金を払った新聞を読んでいるなら、何の問題もありません。
けれども、他人の指定席に座って他人のコーヒーを飲みながら
お金も払わずにとってきてしまった、有料の新聞を読んでいるのなら
これは3つの罪を、同時に犯していることになります。
同じ「指定席に座って、コーヒーを飲みながら新聞を読む」という行為でも
状況によって、罪かどうかが違ってきます。
それは、本人が気づいているかどうかに依りません。
3.外から見ていたら罪かどうか判別不能
「指定席に座って、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいる」人を、
駅のホームから窓越しに見ても、その人が罪を犯しているかどうかは判断できません。
その人が、罪を犯していても犯していなくても
その人のやっている「指定席に座ってコーヒーを飲みながら新聞を読む」という行為自体は
罪を犯していても犯していなくても、全く同じだからです。
罪というのは、こういうことなのです。
その人を表面的に見ているだけでは、罪なのかどうかわかりません。
また故意でない場合、罪を犯している人が自分が犯している罪に
まったく気づいていない、という場合もあります。
むすび.同じことをしていても罪だったり罪でなかったりする
座席に座る、コーヒーを飲む、新聞を読む、というのはそれ自体罪でも何でもありません。
けれどもそれが、本来自分のものではなかったり、してはならないことだったとしたら
まぎれもなく罪ということになります。
罪の本質は、目に見えない所にあるのです。
エデンの園において、最初の人アダムとエバに神が命じられたことは、
「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」ということでした。
この目に見えない約束があったからこそ、他の木の実は自由に食べることができても
善悪の知識の木からは、取って食べることが神の前に罪となっていたのです。
罪の本質は、目に見えない所にあるのです。
【今日の聖書】
主なる神は人に命じて言われた。
「園のすべての木から取って食べなさい。
ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。
食べると必ず死んでしまう。」
創世記 2章16〜17節