ごまかさない人生を生きる
1.罪人として生まれたのに「良い事をしなさい」と教えられて育つ
人はみな、罪をもって生まれついています。
ところが、家庭や学校では「悪い事をしないで、良い事をしなさい」
「礼儀正しく、正しく振舞いなさい」と、教えられます。
「あたかも罪を持っていないかのように振舞いなさい」と、教えられるのです。
あるいは「罪を持っていたとしても、自分でその罪を何とかできる」
「罪を抑えて生きていける」という前提で、「正しく生きなさい」と教育されていくわけです。
2.罪人だから本来「良い行い」をなし続けることはできない
そうすると、どうなるでしょうか?
心と行動の、「遊離」が起こります。
本当はそんなこと少しも思っていないのに、「言葉だけは正しい」ということが起こります。
本当はそんなこと少しもしたくないのに、「立派にみえる行動」をとろうとしてしまいます。
本当はそんなこと少しも思っていないのに、尊敬語や謙譲語を使ってにこやかに話し
本当はそんなこと少しもしたくないのに、義務的に礼儀正しく振舞おうとしてしまうのです。
3.見せかけの正しい言動が身について行く
心が伴っていないのに「あたかもそういう心であるかのように見せかける」ということを続けると
それが習慣化されていってしまいます。
いつでも見せかけの笑顔で、見せかけの行動をとるようになってしまうのです。
それは心の伴わない一種の「ごまかし」であって、嘘なのです。
嘘が、身についてしまうのです。
よく「本音と建て前」と言われますが、建前で生きる生き方が普通になってしまいます。
4.周囲の人からは良い評価を受ける
本当の罪深い自分を隠しながら、正しいふりをしながら生きるようになるとどうなるでしょうか。
周囲の人は表面的な言動しか見ないので、「あの人は立派な人格者だ」と評価してしまいます。
周囲の人からの評価が、高くなっていくのです。
もし、自分がそのようになったとしたらどう感じるでしょうか?
評価が高いのは嬉しいことかもしれませんが、実際の自分の姿とはかけ離れているので
「この人は本当の私を知らないから、大きな誤解をしているな」と思うはずです。
5.良い評価のまま生きようとして見せかけの言動を続けて破綻する
そしてその誤解が解けないように、一生懸命清く正しく生きようとするわけです。
けれども罪が解決しないまま、表面的な正しさを続けていると
やがてそれは、破綻します。元々正しくないからです。
破綻した時の影響は、元々正しくない人だと思われていた場合よりも大きくなります。
「あんなに立派に生きていたあの人がなぜ?」ということになるのです。
けれども、元々罪を隠しながら正しく見せかけていただけなのでそれは当然のことなのです。
6.罪人でないふりをして生きて行ってもダメ
ごまかしは、だめなのです。
罪人なのに罪人でないふりをして生きて行っても、破綻してしまうのです。
根底にある罪が解決しない以上、正しくは生きられません。
そして、真の本来的人生を生きることはできないのです。
たとえ、死ぬまで正しいふりをして生きることができたとしても、
人からの評価は良かったとしても、最後は神のみ前に立つことになります。
7.キリストを信じることにしか解決はない
人をごまかして正しいふりをして生きてきたことを、神はすべて知っておられます。
神の裁きは正しく、えこひいきや分け隔てはありません。
人はごまかせても、神はごまかせません。最終的に神は正しく裁かれるのです。
罪の解決、それはイエス・キリストの十字架にしかありません。
生きているうちに、自分自身のうちにある「とてつもなく大きな罪」を認め
神の前に謝罪し、イエス・キリストの十字架の血による赦しを受け取るのです。
むすび.キリストを信じて罪の赦しと罪からの解放を受け取ること
イエス・キリストの赦しを受け取り、イエス・キリストを心に迎え入れる時
私たちの罪は、完全に赦されます。過去現在未来のすべての罪が赦されるのです。
神の前から、消え去っていくのです。罪のないものとされるのです。
罪が赦されることによって、罪責感から解放されます。
一生懸命良い事をして罪を隠そうとする思いからも、解放されます。
開き直って罪を正当化して生きる生き方からも、解放されます。
「罪が赦された」という感謝が動機となって、良い行いができるようになります。
【今日の聖書】
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。
ローマの信徒への手紙 3章23〜24節