ヤコブ1.5-18
11・5・1
行動の前に目線が大切です。
たいていの場合、人は今の自分の状況を比較で判断します。つまり今自分が幸せかどうかを、周りの人の水準を見て、それを自分と比較して判断していることが多いのです。
つまり「他人を見て自分を測る」というやりかたです。
これは聖書の「ぶどう畑で働く人」のたとえにでてきます。朝早くから日没まで1デナリをもらうという約束で仕事を引き受けた人がいました。この人は日照りの中にいても文句をいいませんでした。ところが同じ仕事場には夕方から日没までで1デナリをもらう約束の人もいました。さて日没になってお金をもらう時、朝から働いた人は、夕方から働いた人が自分と同じ1デナリをもらうと知って、はじめて文句を言いました。朝から働いていた人は、自分が不公平に取り扱われ、不幸せだと感じたからこそ怒りをもやしたに違いありません。この怒りは夕方から働いた人の賃金を見なければ起きなかった比較の怒りです。聖書には書かれていませんが、もし私が夕方から働いていたひとりであるなら、朝から働いていた人と自分を比べて「やった。ラッキー」と幸せ感いっぱいだったでしょう。
私たちも、他人と自分とを比較したり、昔と今とを比較しては、一喜一憂しています。
自分よりももっと不幸な人を見ては「あの人に比べたら自分はまだ幸せだ」と幸福感にひたり、大金持ちを見ては「いいなぁ、うらやましいなぁ」と失望と羨望に心が焼かれたりします。
また自分の中だけでも比較はおきます。今の自分と過去の自分との比較がそうです。今が調子いいとルンルンですが、今が調子悪いと過去の自分のあり方をくよくよします。
あの時もっとアレしてたら今のようにはならなかったのに。正しい反省の心は前にすすむためにするものですが、くよくよするだけの心は目線が後ろ向きで固定されますから前に進めなくなるのです。人や自分だけを見ていると目線がいつも定まらず混乱します。
私たちの心は、心が見ているものに向かい、そのしもべとなります。そしてからだは心についていきます。
もしある状況に劣等感を感じ、疎外感を感じ、自責や不公平感、周りへのねたみや怒りを感じる時があるなら、それは心の目が、ものごとを心に感じるままに見てしまっています。そしてそれは間違ったものの見方である場合が多いのです。正しいものごとの見方は、いつも神と関連づける見方なのです。
5節 知恵の欠けた人がいるなら…求めなさい、とあります。これが正しい目線の変更です。たいていは知恵の欠けた理由を自分の過去や周りに探してくよくよするでしょう。しかし目線は神を見上げなさい。どういう理由で知恵が欠けたかの犯人探しの前に、知恵は神から来るのだから、まず目線を神に向けなさい。そうすると「求める」というなすべきことが示されていることに気がつく。くよくよから祈りへ。
同じように9節 「貧しい人は…(神の前に)高貴な身分です」という目線の変更です。貧乏は貧乏です、貧乏の苦しみは何ひとつ変えられていません。しかしまず最初に貧乏を見つめる心の目線を「自分は貧乏だけど、神の前に高貴な身分をいただいている」というところに定めなさい。そうすれば心が折れずに神の助けを待ち望めると言われています。10節の富んでいる人への忠告も同じです。
私の息子もそうですが、聖書には生まれつきハンディを負った人や貧しい人がたくさん出てきます。彼らは弱い。なぜこうなったのか。それは誰の責任なのか。たいていはこのようなとらえ方です。
しかし正しいものごとの見方はその人々をこうとらえます。「神と関連づける時、この人々は神の栄光を受けて世に示すための神の特別な器である」。彼らをことのほか大切な器だと言っている。
老いることが、弱いことが、負担を負わせられることが、このような神との関係からの目線で正しく見ることができるなら、きっと私たちはイエスの香りを放つ人生へと歩み出せるのです。
「見たまま感じたまま」に見て、とらえて、生きることは労せずしてできます。
ある意味、それは野の動物が一番得意とする生き方です。
しかし私たちは人間です。そんな「見たまま、感じたまま」に立ちやすい視点を、信仰によって「神との関係」という視点にひとつひとつ変更し、再解釈して自分の心に納めていくのです。
これは自然とはいきません。いつも意識しなければならないし、慣れていないので時間もかかるし、めんどうくさいし、痛いこともあるしetc、大変な労苦であります。
だから聖書では、ある意味この目線の変更のことを12節「試練」とよんでいるのです。
コップに半分しか水がないと不満に思う時には、コップに半分も水があるという満ち足りる心も持てるのであります。良い習慣を自分のものとしていただくために祈りましょう。
おおあさふくいん