キリストの来臨:ホサナ!

2007年12月2日、待降節第一主日
イザヤ2:1−5、マタイ21:1−11

イザヤ2:1−5

2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。

2:2 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい

2:3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。

2:4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。

2:5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

 

ろばに乗って、イエス様はエルサレムに入城しました。王様として来られましたが、戦争と恐れを持って来られたのでなく、平和と希望を持って来られました。エルサレムは、お城の町のように、岡の上に建てられた町でした。戦争の時、安全な場所です。平和の時、礼拝と賛美の所でした。今日の旧約聖書の日課、イザヤ2章は、エルサレムの平和な時代を予言します。平和であるのは、主なる神様がその平和を造って下さったからです。主なる神様は国々の間の争いを裁きます。戦争を戦わないで、国々の人はエルサレムの主なる神様の所に行って、神様の御言葉を聞いてそれに従います。平和を造るのは、主なる神様の御言葉です。

 

イザヤ書は、私達の為にも、その当時の時代の人々の為にも書かれた物です。イスラエルの国の人々は罪深く、聖なる神を侮(あなど)り、神様に背を向けたのです(1:4)。人々は戦争と戦争の準備についてよく分かりました。鋤sukiを打ち直して剣tsurugiとし/鎌kamaを打ち直して槍yariとすることです。人を食べさせ、命をささえる道具が、人を殺す武器にすることです。平和な道具が戦争の道具になります。別の時代でしたら、教会の鐘を溶toかして、大砲taihouを作ります。私達の時代でしたら、農業用の肥料を使って、爆弾を作ります。神様から与えられた良い物が、悪用されます。

 

そして、イエス様はエルサレムに入城します。イエス様はイザヤの予言を成就する方法を教えます。イエス・キリストによって、主なる神様の御言葉はこの世の問題を解決kaiketsuする方法になります。聖書の御言葉は、この世の憎しみと悪を裁きます。しかし、イエス・キリストによる赦しの御言葉は、この世に平和と愛をもたらす方法になります。

 

それで、ろばに乗って、イエス様はエルサレムに入城しました。エルサレムでイエス様は死んで甦ります。エルサレムからその永遠の平和の福音が使徒達によって述べ伝えられます。イザヤは、エルサレムが一番高い山になると言いました。そのようになりますが、山のてっぺんの高さの為ではなくて、町の大切さのためです。即ち、このエルサレムから、イエス様の与えられた平和と愛と赦しが出てこの世に出て行くからです。

 

これはパラダイスの約束です。同時に、キリスト信者達の今の人生の生き方になります。キリスト者たちは平和を造る為に働きます、それは、世界平和も、家族の中の平和も、私達の心の中の平和の為にもです。イザヤは、その方法を教えます。イエス様はそれを可能にしました。そして、いつか、イザヤの言葉が満たせる日が来ると言う希望がイエス様によって与えられています。「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」大砲を溶かして教会の鐘を造ります。戦争の化学物を利用して、世の人々を食べさせ、病気の人々を治します。そして、人々はお互いにこのように言うでしょう、「主の光の中を歩もう。」と。

 

これはアドベント待降節の意味です。新しい生き方を教えます。ベツレヘムで生まれる赤ちゃんは偉大なる王様になると教えます。この世の力と富と栄光があまりないですが、この世が本当に、本当に必要とするものを持ってきます。この世が必要とするのは、主なる神様の御言葉を理解して、希望と平和と愛を持つ事です。イエス・キリストの中で私達がそれを見つけます。それで、私達はしゅろの日曜日のコーラスに私達の声を加えます。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

 

アーメン。