目を覚めなさい
2010年11月28日、待降節第1主日
ローマ 13:11-14
13:11 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
昼寝はいい気持ちです!昼御飯を食べた後に、ちょっと横になる時があります。起きるとき、さっぱりして、元気で仕事を続けようと思います。しかし、昼寝のマイナスの点もあります。聖パウロは手紙の中で、「寝る事」をひゆ的に使います。例えば、逃げる事、準備していない事、死んでいる事もあり、そして、今日の使徒書の眠りは、ぼんやりして何も分からない状態をさしています。時に教室の生徒たちは、先生の話している事が全然分からないので、考えているのは先生の話しより、全然違う事です。その時先生は生徒に「起きなさい」と言うでしょう。たまに、私自身がそのような状態です。英語の表現では、「霧の中を歩くことの様」です。恐ろしいのは、車を運転する時です! 自分が運転している事を忘れてしまって、その事にきずいて驚いて気をつけます。これはこわいです!また、夢中で働きますと、時間を完全に忘れてしまいます。聖パウロは、そのような状態について今日の聖書日課で話します、ローマ13:11「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。」聖パウロはどのような眠りについて話しているでしょうか。人生を霧の中で生きる事でしょうか。それで意味のない、つまらない毎日、ゾンビの様な夢遊病(むゆうびょう)の様な生き方でしょうか。自分は誰であるか分からないし、自分はどこにいるか分からないことでしょうか。時間が分からないので、良いチャンスがある時にそれを見る事が出来ないし、新しい経験がないし、刺激(しげき)を与えるものが全然ないでしょうか。比喩的に言うと、眠ってしまう理由とは、私達は神様を知らないからでしょうか。神様の裁きも、約束も知らないからでしょうか。神様の事についてヒントもないのでしょうか。
回りには何が起こっているか分からないことは悪いですが、分かりたくない状態が尚更にひどいでしょう。聖パウロは、人々が信者になる前の時について話しました。理解をしないので、自分の陥っている暗闇が分かりません。光を見つける希望もありませんでした。情報がない、ニューズがない、良い知らせも、悪い知らせもありませんでした。そしてその人々は信じるようになりました。しかし、パウロは「あなたがたが眠りから覚(さ)めるべきだ」と言わなければなりませんでした。私達も時々そのようになります。私達は信じるようになりましたが、眠っている信仰のような状態になった時もあります。この不信仰の様な状態があれば、問題を避ける為に寝ようと思うかも知れません。逆に、問題についての不安の為に、夜寝られない時もあります。両方は不信仰の形かも知れません。また、神様を信頼する事が出来ない状態、信頼したくない状態を表すかも知れません。信仰がないと、自分の人生の中での神様の働きを見る事が出来ないし、私達の救い主が来られた良い知らせを聞く事が出来ないでしょう。その良い知らせとは、救い主は、私達の為に来られた、今も私達と共にいる、再び私達の為に来られる事です。眠りますと、死の近くに進みます。
夢中になって、時間が分からないように、神様も分からないと、寝る事よりも死んでしまって、その上、死んでいる事に気ずきません。それは最悪です。もうウエーカップ・コールがなくなるでしょう。私の目覚まし時計には、ボタンがあります。起きる時間がきて時計が鳴り、そのボタンを押すと、5分後にもう一度鳴ります、これを数回、くり返す事ができますが、30分ぐらい立ちますともう鳴りません。もし私達がアラームを無視しましたら、次に気がつくと一日中寝てしまって、もう夕方になることです。まるで神様は私達の為に、もう時間がないよと言われる声で、起きるかも知れません。しかし起きる事が出来ない眠りです。また起きて逃げる為にもう寝られない状態でしょう。そして、それは一番ひどいでしょう。
しかし、聖パウロは皆さんに書きます、「夜(よる)は更(ふ)fuけ、日は近づいた」(v.12)。夜明(よあ)けです、暗闇は終わりました!暗闇の支配は、新しい日の暁(あかつき)に負(ま)けました。即ち、イエス様の最初のアドベントの時、悪と罪の力の上に勝ちました。十字架上で暗い恥を受けたキリストは、私達を暗闇の中から自由にしてくださいました。死とお墓の暗闇を苦しんだイエス様は、イースターの朝の新しい夜明けに甦りました。その夜はもう私達の後ろにあります。コロサイの信徒への手紙1:13−14で、聖パウロは書きました。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。私達はこの御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」そのような朝のニューズ・リポートは死から私達を起こす事が出来ます!パウロはこのイメージが好きです。第一テサロニケ5:9−10を聞いてください。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」そのウエーカップ・コールはこの人生の為です。今日の苦しみの為に、明日の悲しみの為に、永遠の為にです。そして、パウロは「夜(よる)は更(ふ)け、日は近づいた。」(12)と言う時、イエス様の二つ目のアドベントについて語ります。その救いは近いです(11。その意味とは、復活です。永遠の命です。神様との平和です。
福音の中では、目を覚まして、キリストの光の中で生きるように聞きます。これは素晴らしい一日の始まりです。神様の約束とは、最後の日にはキリストにあるすべての人々が、永遠の光の中に起きる事です。私達のアドベントの待降節のウエーカップ・コールは、神様の御言葉と約束を信頼して、「主イエス・キリストを身にまとう」事です。あなたは毎日起きると何をするでしょうか。顔を洗ったり、洋服を着たり、朝ご飯を食べたりするでしょう。これは聖霊の働きにそっくりです。福音を通して、聖霊は私達を洗礼の水に呼びかけて、私達の罪を洗い流します。信仰によって、制服のようにキリストを身に付けます。そして、主の食卓で聖餐式の聖礼典は、私達の信仰と人生を強くして養(やしな)います。起きて、この人生のための恵みにで、目ざめています。霧がはれて行く道がよく分かります。
私達はキリストを身に着けて、晴れ着を着て、張り切って出かけます。出かけ先とは人生です。他の人に愛を与える人生です。ですから、13節で聖パウロは私達に言います。「日中を歩むように、品位(ひんい)をもって歩(あゆ)もうではありませんか。酒宴(しゅえん)と酩酊(めいてい)、淫乱(いんらん)と好色(こうしょく)、争(あらそ)いとねたみを捨て」なさい。言い換えますと、体の肉の欲望(よくぼう)を満足(まんぞく)させる時が終わっています。何故ならば、私達が信仰に義とされているからです(ローマ3:28)。私達は自分の人生は何のためにあるか分かるからです。私達の体は何のためにあるか分かるからです。他の人との関係は何のためにあるか分かるからです。即ち主の為です。隣人の為です。わがままの自己中心が私達を寝かせると聖パウロは思ったでしょう。ですから、性欲の虐待(ぎゃくたい)や酩酊(めいてい)、麻薬(まやく)、人間関係をこわすねたみなどの、わがままな自己中心的な生き方を警告したでしょう。何故ならば、私達は聖霊によって目が覚めているならば、私達は日中を歩む子供で、日中の様な事で活動的です。そして愛をもって、その活動的な信仰は、他の人のための人生に起きるからです。そして私の祈りですが、昼寝(ひるね)よりも、祈りと礼拝の時間の方が多くの力をあなたに与える事です。そして、待降節の冒険、アドベントのアドベンチャのために、あなたの心が起きているように祈ります!
アーメン。