2013年12月29日
先ず、今日の福音書の背景を見て、小教理問答書の質問を聞きましょう、 「これはどの意味ですか」と。
ヘロデ大王の評判はすごくひどいでした。しっと、疑い深い、裏切り。何百人もの人々を殺したり暗殺させたりしました。例えば、最高法院の人々を皆殺にし、又ほかの300人の政府の職員、又、自分の妻も、長男も、ほかの2人の息子も殺しました。ですから、王になる子供が生まれたと聞いた時の嫉妬心と恐れが分かりやすいです。それで占星術の学者達から、星の現れた時期を確かめたのです。その時から、その子供を殺す為に、その子供の年齢をはかりました。そして博士達が帰ってすぐに、その残虐(ざんぎゃく)な計画を実行しました。人を送り、ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させました。ベツレヘムは大きな町ではなかったのですが、殺された罪の無い子供の数は20人から30人ぐらいです。ヘロデ王がおかした悲しみを表す為に、福音書著者マタイはエレミヤの預言書31:5を引用します。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」ラケルとは、ヤコブの妻でした。神様はヤコブの名前をイスラエルに変えました。それで、ラケルの子供達はイスラエルの子で、イスラエルの国の人々です。創世記35章によりますと、ラケルはラマと言う地方で死んで、ベツレヘムに葬られたのです。そして、ラマはその地方の町でした。エルサレムよりちょっと北です。捕囚としてバビロニアに連れ去らされる前に、ユダヤ人がそのラマの町に集められました。それで、その逮捕された人々の為の悲しみを表す為に、預言者エレミヤはお墓から嘆くラケルを描きます。エレミヤの哀歌を引用する事によって、ラケルを始め、自分の殺された子供達を悲しむすべてのお母さんの嘆きを表します。
神様は天使をヨセフの所に送って、夢の中で言いました、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」兵士が来る前に、夜のうちに幼子とその母を連れてエジブトへ逃げ去りました。エジブトに行く事は全然普通でした。イエス様の前の昔から、何かの危険や飢饉や戦争や迫害があった時、ユダヤ人はエジプトで難民として生きました。アブラハムもヤコブも、飢饉の時にエジブトに行きました。バビロニアがエルサレムを脅した時も、多くの人々はエジプトに行きました。それで、エジブトの各町には、ユダヤ人の街がありました。アレクザンドリアの都市には、100万人のユダヤ人がいました。ですから、ヨセフは多くのユダヤ人が以前にした事と同じ事をしました。そしてエジブトに着きますと、難民同士沢山いますので、お互いに助け合う事が出来るでしょう。
福音書著者マタイは、イエス様の生涯が旧約聖書の予言の成就である事を証ししょうと思います。それでマタイ2:15が言います。「それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と。主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」ホセア11:1では、簡単に、神様はイスラエルの民を奴隷の国のエジプトから救い出したと言います。マタイが言うのは、イエス様は、御自分の生涯によって、イスラエルの民の歴史に参加した事です。勿論、イエス様はイスラエルをモーセのように奴隷状態から救い出しませんが、世の人々を罪や死の奴隷状態から救い出します。
ヘロデ大王は、実際に紀元前4年に死にました。ヘロデが死ぬ前に、星の現れとエジプトへの旅を計算して、イエス様がもう少なくとも2歳ぐらいになったと考えられます。それでイエス様は、紀元前6年ころに生まれたでしょう。ですから、明後日祝うはずの新年はAD2020年のはずでしょう。誰かがカレンダーを造る時、間違いました。とにかく、ヘロデが死ぬと、主の天使が再びヨセフに夢で現れました。「イスラエルの国に帰りなさい」と言いました。最初に、ヨセフはベツレヘムに帰って住もうと思ったみたいです。ベツレヘムはダビデ王の町で、メシアの王が育つ適当な所と思ったでしょう。しかし、ヘロデの代わりの新しい王も子供のイエス様を殺すとヨセフは心配しました。その時にも神様がまた夢でナザレと言う町に行くように告げました。ナザレに行く事が神様の御心であると証明するために、マタイ2:23は言います。「ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」イエス様がベツレヘムよりもナザレで育った事が神様の御心である事を説明する事は大切でした。何故ならば、ヨハネの福音書7:40−42でこの会話がありました。
「群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、 「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」」
しかし、私達によく分かりますように、イエス様はベツレヘムに本当に生まれ、そして、ユダヤ人が言うとおりに、キリストはベツレヘムに生まれる事が必要です。博士達に教えられたとおりです。マタイ2:4−6、
「2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」」
「これはどの意味ですか。」
今日の福音書には、救われなければならない救い主がいます。イエス様は世界を救うために来ましたが、小さな、弱い赤ちゃんとして生まれました。世を助ける者には助けが必要でした。ヘロデ大王からの危険があった時、神様は天使を送り、逃げるように告げました。しかし、ヘロデ大王の息子の時代に危険があった時、神様はもう一人の天使を送りました。今度、逃げる事ではなくて、イエス様に力と勇気を与えました。今度も夜中に兵士がゲツセマネの園にイエス様を逮捕する為に来ました。しかし、今度安全な所に逃げませんでした。そして、十字架上にいる時、十字架から「降りてこい」と言う侮辱と誘惑がありました。しかし、イエス様は十字架の上にいました。そのようにして私達を罪から救い出して下さいました。復活の時、天使が再び来ました。夢にではなくて、イエス様が本当に甦られて、本当に私達の救い主であるように告げる為でした。危険な時に、私達を救う事が出来ます。難民に安全な所を備える事が出来ます。私達を安全に家に帰らせる事が出来ます。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会