神の国はどのようなものでしょうか。主の祈りで『御国が来ますように』と祈る時、何を求めるでしょうか。今日の聖書日課は神の国についてです。福音書でイエス様は72人の弟子達がすべての町に言って、「神の国が近づいたことを知れ」と述べ伝えるように言われました(ルカ10:11)。ガラテヤ人への手紙6章で聖パウロは、その教会が、神の国と共にいる交わりの中で、霊の実を結ぶように書きました。更に、旧約聖書のイザヤ書66章の個所は、未来のエルサレム、神の国の天の都の綺麗な絵です。
御国の福音を述べ伝えるために、イエス様は72人を遣わしました。聖書で72という数は、世界の国々の数です。ですから、このようにしてイエス様は、神の国が全世界の国々の為のものであると言うしるしを与えます。そのミッションの為に、72人が足りないので、もっと多くの働き人が必要です。言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」ですから私達は祈ります。教会学校の為に、特に神学大学の為に祈ります。又、青年が主の呼びかけを聞き入れて、牧師や教師や宣教師や教会の働き人になるように決心するように、献身するように祈ります。同時に、すべての信者の為に祈ります。神の御言葉を話す事が出来るように、又、自分が福音を述べ伝える自信のない人が、人を教会に来るように友達を誘う事が出来るように祈ります。祈りが必要です。何故ならば、外には狼がいるからです。福音を憎む人がいます。又、お金がない時もあるでしょうが、イエス様は弟子達に言われたのは、弟子達がもてなしを受ける事です。弟子達が他の人に受け入れられなくても、怒ったり、心配したりしてはいけません。ただ、靴の後ろの埃(ほこり)を払い落して別の所に行きます。
そのようにするのは、これは平和の福音だからです。イエス様はその宣教師たちに、2つの語るべき事を教えました。「この家に平和があるように」と「神の国が近づいた」(vs.5,9)。この平和が来るのは、病気の人が癒されている時や、神様の愛の福音が述べ伝えられている時です。
今日の旧約聖書の日課、イザヤ66章は面白いと思います。
66:10 エルサレムと共に喜び祝い/彼女のゆえに喜び躍れ/彼女を愛するすべての人よ。 彼女と共に喜び楽しめ/彼女のために喪に服していたすべての人よ。
66:11 彼女の慰めの乳房から飲んで、飽き足り/豊かな乳房に養われ、喜びを得よ。
66:12 主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。
66:13 母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。
66:14 これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ/あなたたちの骨は青草のように育つ。主の御手は僕たちと共にあり/憤りは敵に臨むことが、こうして示される。
私達は父なる神様に祈りますが、エルサレムは神様の子供達の母のようです。「乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされるのです。」この母親は子供達が病気やけがをしている時や怖がる時に慰めます。子供達と遊びます。膝の上であやします。普通、神様が私達と共に遊ぶとは考えません。しかし、良いではありませんか。霊の実の一つは『喜び』です。又、聖パウロは言います。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ4:4)。ですから、神の国は、愛であり、その愛の幸せです。
それで、神の国の絵が描かれています:守り、成長、慰めと遊びです。私達の沖縄ルーテル教会はエルサレムではありませんが、この地上での神の国です。そして私達は神の国の国民です。ですから、その神の国の特徴(とくちょう)を私達の交わりの中で見る事が出来るでしょう。その愛とその愛の幸せが見えます。ここにも守り、成長、慰めと遊びがあります。ですから、私達の教会の活動計画の中でそのものを入れます:礼拝、聖書の学びと、交わりです。
そして忘れないで下さい。十字架上にいる時、イエス様が私達の王として冠を受けました。御自分の頭の上に、十字架に書かれたサインは「ユダヤ人の王ナザレのイエス」です。私達の王として、御自分の上に御自分の民の罪を取りました。私達の王として、私達を赦して下さいました。私達の甦られた主として、御国の中の永遠の命を下さいます。ですから、喜びを持って私達は祈ります。「御国が来ますように。アーメン。」
沖縄ルーテル教会