2014年8月27日
ローマ 8:28−
僕が教会学校の生徒の時代、ある日曜日の暗証聖句はローマ8:28でした。これはすぐに私の好きな聖句になって、今でもわたしの一番好きな聖句です。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
日曜日の礼拝で、この箇所が3年間に1回読まれています。私の好きな箇所であるので、これについて説教を書かなければと思います。いや、書く事を楽しみにしています。自分の人生を調べて、この3年間で、神様がまだ私の人生の中で、本当にすべて益となるように共に働いているかどうか考えたいと思います。私が本当に神様を愛する者でしょうか。本当に神様のご計画に従って召された者でしょうか。と考えます。
(The Japanese and English translations are not in the same order.)
B 「神を愛する者たち」とは、先ず神様に愛された者達です。御計画に従って召された者たちを意味します。聖霊は福音をとおして私達を召して下さいました。ご自分の賜物をもって私達の心を照らしてくださいました。また、私達の誠の信仰を支えて下さいました。(小教理問答書―使徒信条第三条)。これこそは信仰の奇跡です。もし誰かがあなたに「奇跡を見た事があるか」と聞きましたら、「はい、見ました」と答えて下さい。信仰の奇跡を見たと伝えて下さい。その奇跡とは、自分の心の中でイエス・キリストが自分の救い主であると信じる事です。これは、聖霊の働きです。
C これは、御計画に従っていることです。では、聖霊のご計画、その目的は何でしょうか。聖霊のご計画とは、私達を信仰によって清める事で、私達を聖なる者にする事です。この信仰の目的とは救いです。これは純粋な愛です。私達が救われたのは、私達が良い子供になる為ではなく、神様の子供達になる為です。次の節、ローマ8:29−30はこの御計画をこのように教えます、「8:29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。8:30 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」言い換えますと、あらかじめ定める事や召し出す事、義に定める事、栄光を与える事の目的とは、ご自分の子供達にご自分の愛を表す為です。
A 次の言葉は、「万事」です。すべてのものです。良いものも悪いものも、私の正しい決断も間違っている決断も、私の正しい行動も私の馬鹿な愚oroかな行動も;元気でしても病気でしても、金持ちでしても貧乏でしても、力強くても弱くても、良い子でしても罪人でしても、万事、すべてのものの中に、私達は神様の愛を知っています。「万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」何が益であるかが、いつも分からなくても、一番良いものが分かります。一番良い物とは、勿論、神様の愛を知って、キリストを知って、救いを知る事です。この世の中でのすべての悪いものの中でも、私達は、その一番良いものを決して失いません。救いを決して失いません。私達の人生がすごく楽しく、うまく行く時にも、神様は私達に一番良いものを下さいます、即ち、ご自分の愛を下さいます。
@ 最後に、その「ことを、わたしたちは知っています。」 「私達は信じる』ではないし、「私達は希望する」ではないし、「私達は思う」でもないです。しかし「わたしたちは知っている」と言います。言い換えますと、聖パウロは、神学的な推測についてではなく、自分の経験から話しました。聖パウロの人生の経験とは、神様が彼の人生の中で働いている事です。聖パウロの人生がいつもバラ色だったわけではありませんでした。多くの事で苦しんだり、誤解されたり、悪口を言われたり、逮捕されて、鞭打たれたり、また自分の弱さを知ったりしました。それなのに、彼が知っていたのは、――ただ感じたことではありませんがー―知っていたのは、神様は、パウロの益のために、パウロの人生の中で働いている事です。彼が経験したのは、神様はパウロの人生の悪いものをも取って、それを良いものにして下さった事です。一つの例を挙げましょう:ユダヤ人達はパウロの宣教の働きに対してしっとしたので、彼をエルサレムで逮捕してもらいましたが、このようにして、パウロはローマ帝国の都で福音を述べ伝える事が出来ました。
私達の知識と神様の知識が違います。神様は未来を知っています。私達には将来のことが分かりませんので、未来の為への希望しかありません。私達が過去の事を知るので、信仰と信頼があります。以前、神様は私達を助けて下さって、ものごとを私達の為に益とされた事を知ります。私達は神様の約束を知ります。しかし、もっとも大事に知っているのは、神様の愛です。ですから、私達の今の状態が神様の素晴らしいご計画に従ってある事を知ります。 * * * * *
自分の為に、愛する人の為に状態が悪いと感じる時、失望してはいけません。神様を疑ってはいけません。これはローマ8:28の目的です。ローマ8章の最後の箇所は、賛美歌のようです。 「8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
これは神様の素晴らしい、楽しい約束です。
この3年間、どのように神様が私の人生の中で万事が益となるように働いて下さったか調べたいと思いました。多くのとっても良い祝福がありました。家内の愛、私の犬の愛、教会の良い友達の愛情、素晴らしい教会で働いています、必要なものが十分あり、住まいは楽です。車はまだ動いています。綺麗な沖縄のチュラ海で泳ぎました。今日年の夏、アメリカでの家族と会う事が出来ました。この暑い夏ACがちゃんとうごきます、などなど。神様が私に幸せな人生を下さっているので感謝します。
そして、この3年間の良くなさそうなものを振り返って見ました。実は、自分にとっては、そんなに悪くなかったです。左の足のひざが関節痛で痛くなりました。どのように神様がそれを益とされるでしょうか。もしかしたら、今は、もうすこし他の人の痛みが分かって来たでしょうか。もう少し思いやることが出来るでしょうか。もう少し良い牧師なるでしょうか。
私は楽観主義者です。生まれ付きでしょうか、それとも、イエス・キリストに対する信仰によって楽観主義者になったでしょうか。もしイエス様が、ご自分の苦しみと死の中から益を造る事が出来ましたら、私の苦しみを益とする事が出来ます。もし彼の死によって罪が赦されていましたら、もし彼の復活によって永遠の命が与えられていましたら、イエス様が私の苦しみを悔い改めと赦しと新しい命へとかえることが出来ます。
ローマ8:28が私の人生に冒険を与えます。例えば、問題か災いがある時、どのように神様がこの事を益とするかなと思いえがきます。一つのチャレンジーでしょう。ある時、釘を打つ時、自分の親指を打ちました。その時、本当に私は神様に聞きました、「オーケー、神様。あなたの目的とはなんでしょうか。どのように親指を打つ事が私の為に益になるでしょうか。」人々がよく「なぜ」と聞きます。なぜあの人が死んだでしょうか。中東の戦争の中からどの益が生まれるでしょうか。などなど。気を付けましょう。私達の楽観主義が、交通事故で足を折った人にそれが神様のご計画に従う事だなどと言ったなら、それは決してその人に慰めを与えないでしょう。悪は、決して神様の御計画ではありません。しかし、神様は、悪い出来事の中にも、御自分の御計画を果たす為に働く事が出来ます。神様の御計画は救いです。そのご計画は私達に対する愛です。
私にとって、ローマ8:28は自由の宣言です。心配からの自由です。神様のみ手に思い煩いをゆだねます。私は自分の最善を尽くします。かしこい決断をするように心がけます。しかし、自分がものをメチャメチャにしたら、間違った方法を決断して、それを変える事が出来なくても、その心配から自由です。神様は私の間違いでさえも、私の為に益とする事が出来ます。いつも神様の愛を見る事が出来るからです。ですから私の好きな聖句です。
ローマ 8:28−
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会