アモス

2015年7月12日

Amos 7:7-アモス7:7-15 15
アモス7:7 主はこのようにわたしに示された。見よ、主は手に下げ振りを持って、下げ振りで点検された城壁の上に立っておられる。7:8 主はわたしに言われた。「アモスよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「下げ振りです。」主は言われた。「見よ、わたしは/わが民イスラエルの真ん中に下げ振りを下ろす。もはや、見過ごしにすることはできない。7:9 イサクの塚は荒らされ/イスラエルの聖なる高台は廃虚になる。わたしは剣をもって/ヤロブアムの家に立ち向かう。」7:10 ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。7:11 アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で殺される。イスラエルは、必ず捕らえられて/その土地から連れ去られる。』」7:12 アマツヤはアモスに言った。「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。7:13 だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」7:14 アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。7:15 主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。

下げ振りと言う建設道具があります。糸に鉛で出来た重い物をつけます。下げ振りを使いますと、井戸の深さを計れますし、壁のような物が完全にまっすぐであるかどうかを確認する事が出来ます。レンガやブロックを敷く時によく使っています。物が真っすぐで、正しく正確かどうか確かめる事が出来ます。
      

旧約聖書の預言者アモスと言う人がいました。彼は羊飼いであり農夫でもありましたが、預言者になるように主なる神様は彼を召しました。

アモス7:7−9
アモス7:7 主はこのようにわたしに示された。見よ、主は手に下げ振りを持って、下げ振りで点検された城壁の上に立っておられる。7:8 主はわたしに言われた。「アモスよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「下げ振りです。」主は言われた。「見よ、わたしは/わが民イスラエルの真ん中に下げ振りを下ろす。もはや、見過ごしにすることはできない。7:9 イサクの塚は荒らされ/イスラエルの聖なる高台は廃虚になる。わたしは剣をもって/ヤロブアムの家に立ち向かう。」

主の手には下げふりがありました。彼はイスラエルの民が真っすぐではないと分かりました。彼等はくるっていました。イスラエルの国だけではなく、その周りの国も、その下げ振りで計ると彼等は正しくありませんでした。アモスはその人々を罪に定めました。その罪とは、不正義、欲張り、暴力、戦争、神様の律法を守らない事、不信仰と不信頼などです。アモスには、多くの幻や啓示がありました。その幻は、例え話のようで、どのように神様はその人々を裁いたかをしるしました。今日のテキストには、その幻は下げ振りです。アモスの時代にダビデの国は二つに分かれていました。北の国と南の国でした。南は「ユダ」と言い、北は「イスラエル」と言いました。しかし両方の国は神様の律法を守らないので、不正義と欲張りなどの罪を犯しました。今日のテキストでは、その下げ振りが北王国のイスラエルに掛けられたのです。南の国ユダには、一つだけの神殿、エルサレムの神殿だけがありました。しかし、北の国には、多くの言われている聖なる高台、礼拝の場所、またベテルの町にはエルサレムにある神殿と対立する神殿がありました。この幾つかの礼拝場所は、異教のバアル宗教とまざっていました。しかし一番大きい問題とは、真の主なる神様を礼拝する人々でさえも、彼らの人生に於いて曲がっていた事です。モーセの律法や神様に対する真の信仰の計りに足りませんでした。

アモスは主の御言葉を語りました。主なる神様が言われるのは、神様はその北の国の人々を見捨てて、その民は捕らえられて捕囚の民となり、その土地から連れ去られて行き、神殿と礼拝の場所は破壊され、王様ヤロブアムは剣で殺される事です。国の人々やその王はアモスの予言を好みませんでした。 ベテルの祭司アマツヤは、アモスが北の国から去って、古里のユダに帰り、そこで預言するように言いました。アモスはユダに帰って、その預言を「アモス書」に書きました。

新約聖書の預言者バプテスマヨハネには、逃げるチャンスがありませんでした。彼は逮捕され牢屋に入れられました。  ヨハネはヘロデ王の罪を言いました。「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と。最後に彼が神様の御言葉を語っていたので、ヘロデ王は彼の首をはねました。

イエス様も預言者でした。 宗教の指導者達に反対することを言いました。彼らの欲張りと不正義に対して語りました。彼らは正直ではなく曲がっていると言われました。彼らの神様に対する信仰が間違っているので、欲張りと不正義はその罪の結果であると言われました。イエス様も彼らの嫉妬と怒りから逃げられませんでした。ついに逮捕されて十字架上で殺されました。

どう思いますか?イエス様の十字架はゴルゴダの丘に真っすぐに立てられたでしょうか。完全に垂直だったでしょうか。下げ振りを掛けたら、どう計るでしょうか。かなり曲がっていたと思います。まず、イエス様を十字架に付けたユダヤ人の罪があり、同時に、イエス様を十字架に付けた私達の罪もそこにありました。私達の人生や信仰や愛がすごく曲がっているので、すべての事が狂っています。真っすぐなものがありません。私たちがいつも真っすぐな狭い道を歩いていません。私達の罪も十字架の上にありました。

イエス様は十字架上で死んで葬られました。使徒信条が言うように、イエス様は地獄であるよみに下りました。その時イエス様は死の深さを計りました。そして、イエス様は甦りました。神様と人間の間の凸凹をたいらにしました。私達の罪を赦して下さいました。私達の祈りの為に真っすぐな線を作りました。聖霊を送りましたので、神様の青写真のプランに従って、福音に従って、愛に従って、私達の人生を建てます。

よく使われている建設道具のもう一つとはレベルです。バブルが真ん中にきますと、壁などの物が上下に直立して、(鉛直に)真っすぐか、又は、右左に水平に(横に)真っすぐになります。私達は他の人も計ります。彼らの言葉と行ないを計ります。彼らが本当に公平で正直でしょうか。グラスのチュウブの中のあわが有りませんが、国の法律や神様の律法や山上の説教や主の祈りなどがあります。そして、他の人に対する使う計りが自分自身に対しても使われています。

何かが真っすぐ立つようにレベルに、平らにした事があるでしょうか。少しずつ押したり、引っ張ったり、ちょっとたたいたり、コッキングを入れたりします。そして最後に、きれいにそろえます。同じように聖霊は私達のうえに働きます。十戒で私達を押したり、福音で私達を引っ張ったり、御言葉と聖礼典に於いて私達に力を与えたり、クリスチャンの友達によって勇気を与えたりします。ある時、私達は自分の友達の人生を真っすぐにしたいと思います。下げ振りを使いましたら、その一番良い方法は、その糸の先の重い鉛をふって、彼らの頭の上を打つことでしょうか。しかし、それは福音の方法、キリスト教的な方法ではありません。神様の律法を話す必要があるでしょうが、結局、聖霊の働きです。神様の愛と恵みと赦しと希望によって働きます。

日本語の「平和」と言う言葉は面白いと思います。平らと調和です。凸凹がない、全部がそろっています。神様との平和がある時、神様との調和があります。真っすぐです。神様と正直です。神様は私達に対しても正直です。イエス・キリストについての真実を語ります。即ち、私達の罪が赦されています。救いは神様のプランです。

アーメン。平和!Peace! アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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