キリストの昇天

2009年5月24日
使徒1:1-11、エペソ
1:15-23、ルカ24:44-53

先週ある人と話した時、木曜日は復活祭後40日目で主の昇天日であると言いました。彼の最初の反応として私に聞きました。「主の再臨の準備をしていますか」と。私は「はい」と答えました。[キリストの再臨の為に準備しているのは、私はキリストが自分の主と神であると信じているからです。]そして彼は私に聞きました。その再臨の前に起こるしるしとは何でしょうか。私はそのしるしは、毎日の新聞の中にあり、私達の周りに見える事柄ですと言いました。主の再臨の為には、今日でもとても良い日でしょうと私は答えました。それでその会話が終わりました。

私達の信仰の中心とはキリストが死んで、キリストが甦って、キリストが再び来られる事です。いつ帰るか私達には分かりません。キリストは弟子達や教会にその時を教えようと思いませんでした。多くの人々はその時を探して聖書の中の隠れている、分かりづらい預言書の中にその答えを求めようとしました。いつキリストがこの地上に戻られるか分からないので、毎日がその最後の日になる可能性があるように生きなければなりません。言い換えますと、そのように生きるのは、私達が今日か明日か死ぬかも知れ無いということです。死ぬ日は私達の地上での最後の日です。死ぬ日は主と会う日です。あなたは自分の創り主と会う準備が出来ていますか。あなたの主と会う準備をしていますか。

ある人はキリストの再臨について大騒ぎをします。伝道のやり方として、もっと人が多く教会に来るように、イエス様を信じるように、人を脅すかのようです。しかし、人々に罪と不信仰の結果について考えさせるには役に立つでしょう。イエス様が再び来られる時、最後の日、キリストの再臨の日は裁きの日です。羊を山羊から分ける事のようです。あるものは永遠の命の為に、あるものは永遠の滅びの為です。主の来られる日は恐ろしい日でしょう。裁き主なるキリストと会う時は恐ろしいでしょう。自分の人生の書物が開けられる時、罪と不信仰の記録が証拠として見せられる時、どのようにキリストが私達を裁くでしょうか。

キリストが最初に来られた時このように告げました。「悔い改めなさい、福音を信じなさい。」言い換えますと、イエス様は御自分の再臨の為に、私たちがどのように準備したらよいか教えました。私達は罪を告白して悔い改めて、福音を信じなければなりません。イエス様が私たちの為に十字架上で死んで下さった事を信じなければなりません。自分の罪が赦されている事を信じなければなりません。そうするならば私達の準備は出来ています。私達の人生の書物が開かれる時、証拠として私達の罪と不信仰が露(あらわ)にされている時、キリストがどのように裁くでしょうか。私達の罪が赦されています。不信仰が信仰になりました。私達に対して判決を言い渡さなければならない事件がありません。その証拠がありません。なぜならキリストは私達の罪を御自分の上に取ったからです。私達の為にその罰を受けました。十字架上で死んで下さって、3日目に甦られました。罪や死や地獄の上に勝利を持って復活しました。それによって私達はキリストの再臨の為の準備が出来ています。

明日自分が死ぬと知っていたら、病気によって死ねば、今日何をするでしょうか。遺言を書くでしょうか。家族と友達にさよならを言いますか。牧師を呼んで祈ったり聖餐式を受けたりしますか。パーティをしますか。ドライブに行きますか。マルティン・ルターが言いました。「明日が世の最後の日であると分かっても、今日はリンゴの木を植えます。」と。言い換えますと、私達の生き方とは、この世が長く続くようにと思って生きながら、今日こそが終わりであるように生きるのです。リンゴの木を植える事は将来の為ですが、どのように今現在生きるかのしるしです。それは神様に対して喜ばしい生き方です。将来は神様の御手にあると分かります。ですから今の時は安心です。今の時も神様の御手の中にあるからです。

私達がキリストを救い主として信じるので、私達の将来は大丈夫です。私達の永遠の将来も大丈夫です。私達は来年の経済の状態や政治上の状態、社会的なものも、宗教的な状態も知りません。全部はメチャメチャかも知れません。しかし完全にだめであったとしても、私達はいつものように神様の御手の中にいます。

イエス様が昇天したのは、キリストが私達を孤児(こじ)のように捨てられた子供のように私達を独りにした訳ではありません。明日の事を心配する一人ぼっちではありません。かえってイエス様が言われたのは、この世の最後まで私達と共にいると約束しました。イエス様は時間や場所に限られていません。私達の皆の所にいつでも来られる事が出来ます。私達の祈りを聞く為に私達のそばにいます。助けと慰めを与える為に私達と共にいます。私達から遠く離れている所にいる、私たちの愛する者達のそばにもいます。ですからイエス様の昇天とは、イエス様がどこかに去ってしまって行く事ではなく、むしろ私達の近くに来られる事です。私達皆と同じに近いです。

ルーテル教会は一年間に数回だけキリストの再臨を強調します。それは、昇天の日曜日とアドベントのときです。アドベントにイエス様の最初に来られる時のクリスマスの時と世の終わりに再び来られる時に挟(はさ)まれています。使徒信条を告白するたびにキリストの再臨についての信仰を宣言します。しかし一番大切な事とは、イエス様が今も私達の所に来られる事です。聖書を読む時に来られます。聖礼典の中にも来られます。二人か三人が彼の名によって集まり、祈ったり賛美したりする時にも来られます。そのキリスト信者達の仲間だけに使う挨拶を言う時にも来られます。「主があなたと共にいますように。」「また、あなたと共に」。「主汝らと共にいまさんことを」。「主汝の霊と共にいまさんことを。」

アーメン。

マイケル・ニアフッド
牧師沖縄ルーテル教会


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