聖灰水曜日、2014年3月5日
聖灰水曜日はちょっと汚い礼拝です。灰を使うからです。その灰で額(ひたい)を汚すからです。灰をつけると手も汚します。親指で奇麗な十字架を作る事が難しいです。
それで、もっと奇麗な方法がありませんかと思いました。幾つかのアイディアがありました。
1.マジックマーカーはどうでしょうか。はっきり、書きやすいデザインが出来るでしょう。そして、私の手が汚されないでしょう。そして、帽子をかぶったり、頭をかく時に、消されないでしょう。一日中、あなたを見る人々はあなたがキリスト信者であるとすぐ分かるでしょう。しかし、それは問題です。今日の福音書の次の箇所に、イエス様が言われたのは、私達の宗教的な信仰を活かす時、自分が信者である事が目立ってはいけません。言われました、「6:17 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。6:18 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
2.それで、私の2つ目のアイディアが良くないとすぐ分かりました。それは額に入れ墨をすることです。ある団体はメンバーに、どのような洋服を着るか、どのように髪の毛を切るか、など外面的な事を教えます。しかし、イエス様は私達の宗教は心のものだと言われます。勿論、私達の振る舞いによって、皆さんにイエス様が私達の心の中にあると教えるでしょう。それで私達の信仰を、額に消す事が出来ないマークで付けなくても良いです
3.自分の手を汚さないように、マジックマーカーを使いたいと思いました。しかし、灰を筆で付けたら、どうでしょうか。日本の書道(しょどう)が遣っている墨汁のインクは、墨から作られたものです。それで真っ黒です。私は日本の書道を勉強したので、奇麗に書けるはずです。しかし考えてみると、イエス様の十字架は奇麗な物ではありません。汚い木で出来た物です。
灰水曜日で灰を使う理由とは、灰が汚いからです。灰は死のシンボルです。木が燃やされます。死体も燃やされます。生命がもうぜんぜんないと言う証拠(しょうこ)です。お葬式の時言います。「灰から灰へ、塵から塵へ」と。聖金曜日で分かるのは、私達の罪がイエス様の死の原因です。罪は世界のすべての問題の原因です。私達の死の原因です。
自分の額に灰をつけると、自分が罪人であると分かります。自分が死ぬと分かります。自分の罪が汚い、醜いものであると分かります。
しかし、私達の額に有る灰は、マジックマーカーや入れ墨ではありません。礼拝後家に帰りますと、顔を洗って、その汚れを洗い落とします。それは、洗礼のようです。私達の罪が赦されて、洗い流されています。
勿論、私達の罪を私達から取る為に、イエス様が十字架上で死ななければなりませんでした。ただの水と石けんで洗うような、簡単なものではありませんでした。今年の受難節でそれを覚えましょう。私達を赦すために、イエス様の為にどんなに難しかったか覚えましょう。――イエス様の苦しみ、痛み、淋しさ、捨てられた事、侮辱、鞭打ち、死。イエス様の額には、茨の冠の傷跡がありました。手と足の釘後がありました。又脇腹にも槍の傷跡もありました。このようにして、私達は愛のしるしを見ます。その愛が水で洗い流す事が出来ません。かえって、洗礼の水は私達の心と魂に、消す事が出来ないマークを付けます。
それで、私達の額にきたいない汚れがあります。それで、自分がどのものか覚え、又、私達の救い主イエス・キリストもどのものかを覚えます。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会