聖灰水曜日、「どこで」
2007年2月21日
発表をする時、いつ、どこで、だれが、何をするかと話します。以前の灰水曜日に、「なぜ灰を使うか」、「いつから受難節が始まるか」など話しました。今日は、「どこ」について話したいと思います。
先ず、「どこ」に灰をおきましょうか。額(ひたい)に付けます。一番よく目立つ場所です、一日中見えます。手の平や手の甲(こう)でも良いでしょうが、一日何回も手を洗いますので、灰がすぐ無くなりますので、駄目でしょう。胸(むね)に付けても良いでしょう、心の上だからです。灰は罪のしるしです。罪は灰のように汚いですし、罪の結果は灰のような死ですし、又、灰は、赦された罪のようです、灰に成る滅ぼされたものです。鏡の中に自分を見る時、そのしるしを見たいと思います。又、他の人に証ししたいと思うしるしです。即ち、私達は、罪と死と赦しと命のとうとさが分かる人です。
次の「どこ」とは、額に灰を付けてどこに行くでしょうか。今晩、私達はまっすぐ家に帰るでしょう。それで、家族の人々だけがその灰を見るでしょう。しかし、午前中の礼拝でしたら、額に灰を付けたままで、会社や学校に行くでしょうか。私達クリスチャンの証しは、プライドにするか、それとも恥になるでしょうか。
何故ならば、灰は死のしるしです。お葬式の時、この言葉があります。「土を土に、灰を灰に、塵を塵に返します」と。灰がしるすのは、私達は自分の罪の為に死んでいる事です。その灰を額に付けている私達を見る人々は、「見て、死んだ人が歩いている」と言えるでしょう。しかし、私達クリスチャンの為に、その灰は十字架の形に書かれています。私達はキリストにあって死んでいますので、キリストの十字架上の死に参加します。ですから、私達は同時に、キリストにあって生かされています。額の灰が示すのは、私達の罪が赦されている事です、灰のように成るまで滅ぼされています。私達はキリストにあって生きています!
今晩、家に帰って、寝る前に顔を洗います。顔を洗うとき、自分の洗礼を覚えて下さい。洗礼によって、私達の罪が洗い流されています。
灰水曜日でしても、クリスチャンは灰が要りません。マタイ6章は、自分の信仰をみせものにしないように注意をします。自分がたの人や他のクリスチャンより良いクリスチャンであるなどという振る舞いをしないで、他の人が自分と同じ事をしない時その人を裁いてはいけません。いばってはいけません。以前に思った事ですが、水の洗礼よりも、目で見る残るものはどうでしょうかと考えました。例えば、あるカルトやギャングのようにイレズミはどうでしょうか。今は、それは良いアイディアではないと思います。何故ならば、キリスト信仰は、心の事です、魂の事です。聖霊を付けるしるしとは、私達が良い業をする時、福音を語る時です。
最後の「どこ」とは、心や魂の場所です。その所で罪が私達を支配したいと思いますが、その所は、キリストが私達を赦した場所です。古い灰は心の中に入る事が出来ませんが、キリストは入ってくださって赦しと永遠の命と救いを下さいます。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会