湖畔で

2012年4月22日


ヨハネ 21:1ー14
21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。 21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。 21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。 21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。 21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。 21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。 21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。 21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。 21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。 21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

ペトロは「私は漁に行く」と言うと、ほかの6人の弟子達は、「私達も一緒に行こう」と言いました。どうしてペテロは釣りに行きたかったか聖書に書かれていませんが、私達は自由にすいそくする事が出来ます。私達は自分達の経験に基づいて考えます。なぜならば、私達はその弟子達と同じような者だからです。それは、私達もイエス様の弟子達であるからです。自分の信仰をトマスのように告白した人は弟子です。「私の主、私の神よ」と。私達も弟子ですし、私達も釣りに行ってしまいました。そして、私達のような弟子の為に、このストーリはヨハネの福音書に書かれています。20章の最後の一節が言う通りです、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また信じてイエスの名により命を受けるためである。」

あなたでしたら、どうして釣りに行くでしょうか。人生がつまらないからでしょうか。たまに違う事をしましたら良いでしょう。ペテロ達はエルサレムで、聖霊の来られるペンテコステの日までの6週間を待つ事はつまらなかったでしょうか。しかし、ただつまらないと思いましたら、イエス様は弟子達がいたティベリアス湖(即ち、ガリラヤ湖)までに行かなくても良いです。自分達の退屈を癒す為に、イエス様は必要ではありません。ただ、彼らの人生を面白くする為に、イエス様は彼らの所に行かなかったでしょう。それで、釣りに行く違う理由を探しましょう。又、イエス様が湖に行く違う理由を探しましょう。

ストレス開放はどうでしょうか。イエス様が逮捕されて、裁かれて、十字架上で殺されて、葬られて、甦られたので、その二週間には多くのストレスがありました。釣りに行きましたら、リラックス出来るでしょう。しかし、彼らの釣りの方法はリラックス出来ない方法だと私は思います。彼等は夜釣りました。一晩中でした。ある時、イエス様はストレスに関して、このように言われました。(マタイ 11: 28)「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」彼らのストレスを解放するために、イエス様は湖に行かなかったでしょう。

もしかしたら、ペテロ達にはお金がなくなったでしようか。それで漁に行って、沢山の魚を取って市場で売りましたら、生活が出来るでしょう。現代の多くの弟子達には、普通の世俗的な仕事があります。このようにして家族を養いますし、自分の教会の伝道をも支えます。又、社会的な仕事をしますと、「隣人を愛しなさい」と言う戒めを守ります。しかし、ペテロは上手な釣り人ではありませんでした。彼の元々の職業は漁師でしたが、下手でした。新約聖書の中での記録では、イエス様の助けが無ければ、ペテロは魚を一匹も釣れませんでした。3回ほど、沢山の魚を獲る奇跡がありましたが、いつも弟子達が自分達独りで何も獲る事が出来なかった時の後に、イエス様の助けによって、沢山の魚を釣りました。ですから最後に、ペテロとその他の弟子達を助ける為に、イエス様が来られる事が必要でした。朝早くでした。夜が明けたころで、まだちょっと暗いので、湖畔に立つイエス様の顔を見る事ができませんでした。陸から90メートルぐらい離れていました。イエス様は彼らの状態が分かりましたが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と叫びました。何も無いと分かりましたので、「魚が全然獲れていないでしょうね」と言いました。 弟子達は「ありません」と答えました。それでイエス様は「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と言われました。その船は小さいでした。右と左はあんまり離れていませんでした。魚は簡単にその距離を泳ぐ事が出来ます。ここで大切な事とは、魚がいる場所ではなくて、弟子達がいる場所です。イエス様は弟子達のいるべき所を教えました。即ち、イエス様の命令と導きに従う事が出来る場所です。イエス様の言う通りにしますと、網は153匹の大きな魚でいっぱいになりました。それを見て、弟子のヨハネは、湖畔に立った人はだれであったか分かりました。イエス様でした。「主だ」と言いました。それで、ペテロは自分のいるべき所とは、船の上ではなくて、陸のイエス様のそばだと分かります。湖に飛び込んで、イエス様の所まで泳ぎました。ペテロは、上手な漁師ではありませんでしたので、イエス様は彼に新しい職業を与えました。イエス様はペテロを羊飼いにしました。「私の小羊を飼いなさい」と言われました。ですから、その湖の所の朝早く、イエス様が弟子達の所に来られた理由とは、彼らに新しい生き方、人生の新しい意味を与える為でした。そして、イエス様の助けによって、彼らは羊飼いである使徒になって、福音を延べ伝えて、多くの人々を神の国に導く事が出来ました。しかし、魚のように網を陸に引き上げるように無理やりに人を御国に入れるのではなくて、神の愛によって、聖霊の導きによって、人々をイエス様の所に連れて来ます。

現代の弟子達が釣りに行く理由がもう一つあります。それは、彼らはイエス様の宣教のミッションをあきらめたからです。釣りに行く事とは、イエス様の為に働かない事です。そして、これこそは一番大きな問題です。退屈やストレスやお金がないからではありません。信仰の問題です。上手に釣りが出来ても、商売が上手でしても、それがあなたに信仰を与える事は出来ません。又、魚を沢山獲る事が出来なくても、商売が下手でしても、別にあなたをイエス様から更に引きはなす訳ではないでしょう。弟子達は夜、漁に行きました。ヨハネの福音書の中では、それは、罪と不信仰の暗闇を表します。その時、主は私達に呼びかけて下さいます。「何も獲っていないでしょう。自分の力で何もできないでしょう」と。イエス様は私達の状態が分かります。私達のやり方をやり直しなさいと言われます。「舟の右側に網を打ちなさい。」英語の聖書では、言葉のごろ合わせがあります。「右側」とは “right side” です。そして、英語では ”right” と言う言葉には2つの意味があります、「右」と「正しい」です。ですから、「舟の右側に網を打ちなさい。」 とも「舟の正しい側に網を打ちなさい。」とも意味を取ることが出来ます。言い換えますと、主の命令に従う事は正しく生きる事です。別の箇所で、イエス様はこのように同じ事を言われました、「悔い改めて福音を信じなさい」と。そして、私達は自分の人生の中でイエス様に従うようにするのは、彼が本当に自分の主、自分の神であると理解する時です。自分のいるべき所とはイエス様のそばだと分かります。ペテロと共に水に飛び込む事は、洗礼のようです。私達の罪が洗い落とされて、私達はイエス様の所に行きます。そして、イエス様がその湖畔で、弟子達の為に、魚とパンの朝ご飯を準備して下さったように、私達を養う為に、聖餐式の糧を下さいます。

もし私達は、不信仰の理由で釣りに行ってしまいましたら、イエス様が来られる事が必要です。罪の為に、イエス様を自分の救い主として理解する事が出来ませんので、イエス様は私達にご自分を表さなければなりません。私達はイエス様の愛と憐れみを見ます。退屈やストレスや経済の心配からの開放が私達に必要であるとイエス様は分かります。そして、又、失望と死からの救いも必要であるとイエス様は分かります。それで、聖書や聖礼点によってご自分を表して下さいます。彼の十字架上の死が私達の罪を赦して下さいました。又、彼の復活は私達に永遠の命を下さいました。 それでヨハネとペテロのように、私達も「主だ」と分かります。

最後に、もう一つの英語のごろ合わせです。フィシング(“fishin’ フィシン”)を止めて、主のミッション(“missionミッシン”)に出かけましよう。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


説教のリスト