天からか、人からか 

2011年9月25日

マタイ21: 23〜32
21:23 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」21:24 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。21:25 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。21:26 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」21:27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。21:29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。21:30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。21:32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

皆が制服やバッジを身につけますと、どの人に権威があるかすぐ見わける事が出来ます。軍隊の場合には、その征服はその人の地位を表します。それで誰に権威があるか、誰の命令に従わなければならないか、誰が命令を下す事が出来るか、表します。会社の中では、人はバッジか名札のようなものを身につけますと、誰がマネジャーかなどを表します。会社の課長や軍隊のオフィサーに権威があるのは、その人の上司が彼らにその権威を与えたからです。それで、普通の会社員はその人の権威を認めて、命令された事をしなければなりません。皆が制服やバッジを身につけると、分かりやすいです、その人と以前会った事が無くても、そのバッジを見ると、上役であると分かります。しかし、誰も制服を着なければ、誰もバッジを身につけなれば、誰が上役であるか分かりません。知らない人から「あれをしなさい」と言われましたら、私達は、「あなたは誰ですか。どうして私はあなたの言うとおりにしなければなりませんか。私の上役ではありません。」と思うでしょう。子供の言い方でしたら、「あなたは私の母ではありません。私に命令する権利がありません。」というでしょう。

私達はキリストにその質問をします。「どうして私はあなたの言うとおりにしなければなりませんか。」今日の福音書では、祭司長や民の長老たちがイエス様に近寄って来て言いました。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」と。これは大切な質問です。何故ならば、イエス様は神の国について新たしい事を教えていたからです。権威のあるユダヤ人は、イエス様の権威がどこから来たのか知りたいと思ったのは、自分達がイエス様の教えに従わなければならないかどうかを確認したいと思ったからです。もしイエス様には神様の権威があれば、イエス様に従わなければなりません。もしイエス様はただのうるさい問題をする人でしたら、かってに自分の神様についての考えを話す人でしたら、イエス様を無視する事ができます。その場合には、イエス様をだまらせることができます。良い解釈をすれば、祭司長や律法学者達は彼らの仕事を真面目にしていたことになります。彼らは本当に宗教の権威者でした。神様の御言葉を正しく教える責任がありました。しかし、この会話の中で分かるのは、彼らはその権威を失いたくなかった事です。イエス様の権威がどこから来ても、それを受け入れたくなかったのです。バプテスマのヨハネに対する態度も同じでした。多くの人はヨハネが神様から送られた預言者であったと信じましたが、エルサレムの権威者達はヨハネを受け入れませんでした。もし彼を受け入れましたら、自分たちも悔い改めてヨハネから洗礼を受けなければなりませんでした。結局、イエス様はユダヤ人達の質問に答えませんでした。何故ならば、どのようにイエス様が答えても、彼らはイエス様の権威を受け入れようと思わなかったからです。彼等は心の中で、イエス様は殺されなければならない、問題を引き起こす者である事と、もう既に決めてからです。もしイエス様はその日に、御自分が神様の預言者であると言われましたら、ユダヤ人達はすぐ石を拾って、イエス様に石投げによって殺したでしょう。しかしイエス様は待ちました。ローマの総督の前での正式な裁判を待ちました。それによってイエス様の犠牲は、世のすべての罪を赦す犠牲になるからです。

私達もイエス様について同じ質問をします。イエス様の権威はどこから来ましたか。天国の神様からか、それともイエス様は偽者だったでしょうか。イエス様は神様の御言葉を語るか、それとも、ここちよい人間の心の哲学を話したでしょうか。これは信仰の質問です。イエス様はメシヤ、私の主、私の神ですか。そうでしたら、自分の人生が変わるはずです。そうでしたら、悔い改めがあるはずです。悔い改めは、罪を後悔する事だけではありません。罪が赦される事です。そして、悔い改めとは、自分の人生の中でイエス様に従う事です。イエス様に従う事とは、イエス様の教えによって生きる事です。山上の説教によって生き、主の祈りは私達の絶えまない祈りになります。その主の祈りが与えるのは、天にいます父を完全に信頼する信仰を与えます。何故ならば、彼に国と力と栄が永遠にあるからです。

そして、イエス様は例え話を話します。二人の息子は、父のぶどう園の中で働きたくなかったのですが、後で兄は考え直して働きに出かけました。ここでイエス様が意味するのは、祭司長や民の長老たちが神様の働きをすると言いましたが、彼らがイエス様を受け入れなかったので、彼らは神様の働きをしていない事です。そして、罪人は最初に神様を信じようと思わないで、神様の道を歩もうと思わなかったですが、バプテスマのヨハネの説教やイエス様の教えを聞いて、考え方を入れ直して、神様に従い、神様の為に働こうと思いました。イエス様を信じるようになった、その嫌われた罪人は、徴税人や娼婦たちです。イエス様の時代には、いみ嫌われた罪人でした。今の時代でしたら、誰に当たるでしょうか。麻薬を使ったり売ったりする人や、ゲイとへんたい、泥坊と政治家、又、自分が嫌いな人などでしょう。罪人が自分は罪人であると分かり、キリストを信じましたら、神様のぶどう園の中で働く呼びかけに従えば、その時、彼等は神様の働きをしています。それは神様にとって喜ばしい事です。

私達はイエス様がどこから来たか、誰からその権威を与えられたか知っています。神の1人子、救い主です。イエス様はこの後のたとえ話で、マタイ23章43節で「神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。」といわれました。私たちはこの異邦人に当たります。私たちはイエス様の助けによって、神様のぶどう園で神様の為に働くことが出来るので嬉しいです。

アーメン

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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