洗礼と聖霊
2009年1月11日、主の洗礼日
創世記1:1−5、ローマ6:1−11、マタイ1:9−11
創世記1:1−5、
1:1 初めに、神は天地を創造された。1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。マタイ1:9−11、
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
人間が罪に落ちる事は神様のご計画だと言いたくありません。神様はその事で喜んでいません。しかしアダムとエバ、また現代のアダムとエバである私達も、罪を犯す事が不可能な者として創造されましたら、私達皆はロボットにすぎません。その場合には、愛もない、自由もない、また神様の心の中にも喜びがありません。
神様は罪を好みません。しかし聖書によりますと、この世を創造する前にも、人間が罪に落ちることをご存知でした。ですから、この世を計画する時、この世の救い主も計画しました。ですから神様が「光あれ」と言われる以前にも、イエス・キリストが十字架上で死ぬことがもう既に計画されていました。
イエス様はご自分が世の光であると言われました。キリストには新しい創造があります。キリストの死と復活によって、神様は被造物との新しい働き方をされます。この新しい方法とは赦しです。罪深い人々は、神様を愛する事を止めました。そして、神様を愛する事を止めたと同時に、自由をも失いまして、罪や悪魔や死の奴隷になりました。キリストがいないと、私達皆もそうなります。キリストの愛がないと、私達は本当に自由ではありません。本当に自由でなければ、本当の愛もありません。キリストによって赦しがあります。赦しは愛です。愛であるのは、自由を与えるからです。罪からの自由であるので、その罪の罰からも自由で、罰に対する恐れからも自由にされました。その時、愛があります。また第一ヨハネ4章18節はこのように言います、「
4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」世の光であるイエス様が、ご自分の公の働きを始めた時、まず洗礼を受けました。洗礼が罪の赦しの為であるので、イエス様が受けなくてもよいと考えられます。イエス様が決して罪を犯した事がないからです。それはイエス様が同時に神様であり、人間であるからです。しかしイエス様のバプテスマは予言のようです。何故ならば、イエス様は世の罪をご自分の上に取るからです。このようにして、イエス様は世界一ひどい罪人になりました。しかし、イエス様が世の罪を赦す為に、バプテスマだけでは足りませんでした。十字架上で死ぬことが必要でした。その時、罪が赦されたのです。その時、私達の罪も赦されたのです。
天地創造の時、聖霊はこの世の上に降りて来られました。イエス様が洗礼を受けて公の働きを始めた時、聖霊はイエス様の上に降りて来られました。ペンテコステの日、教会の公の働きを始めた時、聖霊は弟子達の上に降りて来られました。そして、私達もイエス様の為の働きを始める事が出来る為に、聖霊は私達の上にも降りて来られます。それは洗礼を受ける時です。又、神様のみ言葉を聞いてキリストが自分の救い主として信じる時です。信仰に入って洗礼を受ける事は一つのセットのようです。私達の為に聖霊が来られる事は、ただ一度だけの出来事ではなくて、神様がいつも私達に恵みを下さるからです。神様は「光あれ」と再び言われる事のようで、私達の心が光と恵みと自由と愛で満たされます。
今日、私達は自分達の洗礼を覚えます。私達がキリストによって新しく創造された者であることを覚えます。そして、神様が私達を赦して下さったので感謝します。言い換えますと、神様が私達に自由と愛を下さったので感謝します。
アーメン。
マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会