水をワインに、古い世を新しい世にするイエス様

2007年1月14日、顕現節
ヨハネ2:1−11

2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

水をぶどう酒に変える事は、単なる奇跡以上の出来事です。これはイエス様の栄光を現すしるしだったので、イエス様の弟子達はイエス様を信じました。イエス様を信じる理由とは、イエス様が奇跡をおこしたからではなくて、この奇跡がしるしであると分かったからです。即ち、この奇跡は、イエス様がどなたであるかをしめすしるしでした。彼らが見た栄光は奇跡を起こすことが出来るミラクルワーカーとしてのイエス様の栄光ではなく、メシヤとして救い主としてのイエス様の栄光を見ました。ですから、このヨハネによる福音書の中では、ヨハネはイエス様の奇跡を「奇跡」としてではなくて、「しるし」と呼びました。何故ならば、その奇跡の目的とは、イエス様のアイデンテティを表すことでした。その奇跡は、神の国を表します。ですから、今日、このしるしを調べて、イエス様が私達に現そうと思うことを発見しましょう。

この話は例え話しではありませんが、例え話しのように、この話を読んで神の国はなんであるかを見ましょう。聖書の最初の本、創世記2章によりますと、結婚式は神様の創造物に対する祝福で、その創造のお祝いです。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。2:24」お祝いは、食べたり飲んだりする時です。旧約聖書の中であらわされている、来るべきメシアの時代には、溢れるほどのワインがあります。それは大きいお祝いのしるしです。

しかし、今日の福音書の話では、ぶどう酒が無くなりました。もうすぐ披露宴が終わりそうでした。それは、この結婚式が古い創造に属し、この古い罪深い世に属していたからです。この世は古く、罪のために疲れて、腐って、不潔です。この古い世の喜びを続ける希望がありません。結婚式の所にあった石の水がめでさえも空っぽで、清めの儀式のための水がありませんでした。

人々は、この世の罪深さ、この世の古さについての真実を隠そうと思います。その真実を認めたくありません。今日の福音書では、真実を隠す事は酔っ払うことです(10節)。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものです。」酔っ払うことは信仰のようなものです。間違ったほうに導く誤った信仰です。罪から生まれて、喜びを幻や幻想のなかで続けようと思います。この酔っ払うことは古い創造の祝福を間違った方法でもちいます。又、古い創造の祝福が神様から与えられた良い物であると認めません。人々は、自分がオーケーと思いながら、自分をもっともっと汚kegaれたものにしてしまいます。これはワインや酒だけではなくて、罪の真実から自分の良心を麻ひさせるすべてのものをさします。

どうしてぶどう酒が無くなるでしょうか。どうしてこの世が終わるでしょうか。自然現象ではありません。地球の温暖化.と違います。理由は、ヨハネの福音書の次の章に書かれています。イエス様がニコデモと話す所です、3:17-21「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」ぶどう酒が無くなるのは、これは、この罪深い、光より闇が好きな世の中に対する神様の裁きです。神様はこの世からご自分の祝福を取り消します、それは、創世記3章ののろいです、罪を犯す人々への呪いです。ですから、清めの儀式のための石の水がめが空っぽでした。この創造のお祝いが続きますが、完全ではありません、この世の終わりのためのしるしが沢山あります。

イエス様が婚礼に招かれました。ですから、この日の創造のお祝いがふつうのとは違います。最初、母マリアだけが創造物の希望の源を知っていました。しかし、実は、水をワインにする奇跡は、この世の問題の解決するほうほうではありませんが、これから来る解決への「しるし」です。古い創造の中では、祝福が無い訳ではありません。しかし、問題は、古い創造の祝福は、新しい創造のものと比べますと、あまり良くありません。劣ったものです。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。(10)」同じように、古い方法は人を清めません。イエス様は言われました、「わたしの時はまだ来ていません。(4)」しかし、その事は、この世の問題を解決する奇跡を指し示します。イエス様の時とは、ご自分の死と復活の時です。ご自分の死と復活によって、この死にかけている世界の罪をご自分の上にとって、ご自分の犠牲によってそれを清め、ご自分の復活によってそれを新しくします。

水をぶどう酒に変えるイエス様の奇跡を見た弟子達は、イエス様がどなたであるかを表すしるしを見ました。信仰によって、彼らは新しい創造を経験しました。信仰は、自分の思い、自分の幻想ではないし、酔っ払いのようなものでもありません。信仰とは、キリストがご自分の栄光を表す時に対するはっきりした応答です。その栄光とは、キリストが十字架上で私達を救い出して、私達を贖い出してくださった事です。婚礼のぶどう酒のように、信仰は、良い物と良くない物を区別します。この世の祝福とキリストによる新しい創造の祝福を区別します。古い創造の中にも新しい創造の中にも、信仰は、神様の祝福とその目的、救いのご計画を見ます。ですから私たちは両方を大事にして、楽しみます。

あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエス様の祝福が今日の福音書の最後に出て来ますが、その古い創造とそのお祝いが捨てられていません。イエス様はそのパーティをストップしませんでした。かえって、パーティが続くようにしました。同じように、私達の人生をストップしないで、最後まで続くように、希望を下さいます。実は、新しい創造には、新しいお祝いがあります:聖餐式です。キリストの死と復活を祝いながら、古い創造の中に住んで、この古い創造が神様の下さったものであるので、張り切って、祝って生きるのです。キリスト信者達は、まだこの世に住んでいますので、ここで働いて、愛の業をし、この命の為に神様に感謝します。そして、マリアと同じ事を話します。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください(5)」と。イエス様にすべてを任せます。新しい創造のぶどう酒は、イエス様の血によって私達を清めます、そして、その命を与える杯は、永遠に溢れます。

アーメン。