綺麗な手と心

2009820

マルコ7:1-13

7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」

7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

7:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、

7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。

 

新型エンフレンザが広がります。病気にならないように、広がらないように、家に戻る時、ちゃんと手を洗って口をうがいするように教えられています。そのばい菌を殺す事は大事です。昔からお母さん達は食事の前に、皆が手を洗うように言います。犬と遊んだり、庭の掃除をしたり、車を治したりすると、どのばい菌を拾うでしょうか。ですから気をつけて、きれいに手を洗いましょう。

イエス様の時代の人々は黴菌やヴィルスの事を知りませんでした。ファリサイ派の人々は手がれていことよりも、手がれている事について感心を持ちました。これは宗教的な汚(けが)れの事です。最初これをきちんと守ることは立派な事でした。マルコ7:4が言います、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。インフルエンザや別の病気を心配しませんでした。マーケット市場には、黴菌より危ないものがありました!罪の多い所でした。正直ではない店の人、徴税人、聖書の食べ物に対する規定を守らないユダヤ人、異教のローマ人、色々の罪からの誘惑、やもありました。このような罪深いものが心と思いを汚(けが)します。ですから人が市場から家に帰りますと、手を洗う事は祈りをすることのようでした。どうか神様、今日わたしが見た罪から私を守って下さい。犯した罪があれば赦して下さい。私を清めて、聖なる者として、誠の信仰を守る事が出来るようにして下さい。アーメン。

イエス様の生まれるずーと前に、ユダヤ人たちはバビロニアの捕囚から約束の地に帰りました。二度と神様の罰を受けないように、自分達を守りたいと思いました。厳しくなりました。十戒や他のモーセの律法を守る為に、聖書に書いていない多くの言い伝えや習慣を作りました。それは神様の命令をよく守る為でした。しかし、いつのまにか、ものごとが逆になりました。言い伝えや習慣が神様の十戒より大切になりました。その習慣を守るために、厳しく守ったので、精神病の脅迫(きょうはく)された compulsive behavior に近くになったと思います。その時、その言い伝えの本当の意味がなくなりました。例えば手を洗うのは、もう祈りではなくて律法を守る人のしるしになりました。手を洗うと、その人が社会を支配するファリサイ派の人々に従う人のしるしでした。ファリサイ派の人々はイエス様に聞きました。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」言い換えますと、どうして弟子達が私達の言う事を聞かないのでしょうか。もう神様に願っている赦しの為の祈りではなくて、宗教の指導者に対する従順のしるしになりました。彼らが思ったのは、イエス様がそのユダヤ教の習慣をって、そのユダヤ教のアイデンテティを弱くし、その宗教をすると。

イエス様は彼らを「」と呼びました。聖書の言葉は、「芝居をする、役者」と意味します。ファリサイ派の人々は何かを言いますが、神様の律法を守るふりをするという事です。清い人生を送るように公に見せますが、実は神様の律法に従わないで、むしろ自分達が作った習慣を守ります。イエス様は旧約聖書の預言者イザヤから引用しました。

7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

 

言い換えますと、手を洗う事よりも、心を清める事の方が大切であるとイエス様は言われます。心の中には、すべての罪と悪があるからです。水と石けんを使って心をきれいにする事が出来ません。ただバプテスマの水によってだけです。十字架上で死んだキリストの血によってだけです。罪の赦しによってだけです。私達を信仰に導く聖霊の働きだけによってです。

ユダヤ人が市場から帰りますと手を洗ったように、私達もそうした方が良いでしょうか。と言うのは、教会や自分の家の安全な所から出かけると、私達の周りには多くの悪と多くの罪を犯させる誘惑があります。誘惑がいつもあります:麻薬、飲みすぎ、カケごと、性欲の罪、人をだます事、嘘つき、欲張り、暴力、等。出かける前に守りの為に祈ればよいでしょう。家に帰りますと赦しを祈ります。又、安全に家に帰りますと感謝の祈りが良いでしょう。

罪を犯す誘惑がいつも私達の所にありますが、イエス様の赦しもいつも私達の所にあります。イエス様が私達と共にいるのは、私達が自分の手を洗うからではありません。又、私達が良い子になるように一所懸命にするからでもありません。むしろイエス様こそが私達の心を清めます。

しかし手を洗うよりも、耳を洗って読書のメガネを磨く必要があるでしょう。神様の御言葉は私達の心を清めます。神様の愛についての言葉は私達の心の中に愛を作ります。自分の手がれていても、聖書やデボーションの本を開いて毎日読みましょう。平和と赦しの言葉を聞きましょう。勇気と希望の言葉を聞きましょう。詩編と讃美歌と聖歌の言葉は神様を信頼する信仰を作ります。家の中にも車の中にもクリスチャンの音楽を聞きましょう。心と唇を開いて神様に賛美して感謝しましょう。

アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会


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