「疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに
来なさい。
休ませてあげよう。」
マタイ 11:28

2008年7月6日
マタイ 11:28-30, ローマ 7:14-25

マタイ11:28 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

イエス様は言われました、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」これは純粋な福音です。私達皆には様ざまな重荷があります。皆はその重荷から解放されたいと思います。今朝、この説教の時間が限られているので、皆さんのすべての重荷をリストアップする事が出来ません。皆さん、自分の重荷のトップ5をリストアップして下さい。

イエス様は、私達の重荷からの休みを与えると言われました。これは、詩篇23編のようです。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い3 魂を生き返らせてくださる。」私達の毎日の心配と苦労の中で、このような休みは一つです。

 

休ませる方法のもう一つとは、私達に新しい物を下さる事です。言われます、「29 わたしは柔和(nyuuwa)で謙遜(kenson)な者だから、わたしの軛(kubiki)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷(ni)は軽いからである。」イエス様はひどい奴隷の監督ではなくて、やさしくて親切なお方です。彼のくびきは愛です。

イエス様の「くびきは追いやすい」です。即ち、私達の為に丁度良いサイズです、らくに身につける事が出来ます。すべてのバックパックがすべての登山者(tozansha)の体に合わないものです。ですから、買う前に、身に付けてみて、ストラップを調整して、らくに山のてっぺんまで持つ事が出来るパックを探します。イエス様は私達のサイズが分かります。この人生で、私達が背負う事が出来る仕事を下さいます。そして、聖霊の助けによって、私達の重荷は、さらに負いやすく軽くなります。

イエス様が下さる新しい重荷とは、十字架です。言われました、「自分の十字架を担ninaって私に従い」なさい(マタイ10:38)。どうしてその十字架が軽いかと言いますと、それは、イエス様が私達の為にその十字架を背負ってゴルゴダを登って、私達の罪の重荷を取り除く為に十字架に付けられたからです。

聖パウロは、この事に大きな慰めを見つけました。聖パウロは、迫害の重荷、宣教、ミッソンの最前線の状態について文句を言いませんでした。彼が感じた大きな重荷とは、自分の良心にあった罪の重荷です。自分で一生懸命に頑張っても、罪を起さない事が出来ませんでした。自分の心や人生の中は戦争のようでした。平和を見つけられる所とは、イエス・キリストの愛と赦しの中だけでした。このように書きました、「私はなんと惨mijiめな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。私達の主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」〔ローマ7:24−25a〕。

夏の暑さでしても、人生の悩みでしても、ここには、私達の皆の為の休みがあります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

アーメン。


マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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