キリストの苦しみ(パッション)、
キリストの憐れみ(コンパッション)

2006年8月6日
マルコ6:30ー34

さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

映画「ザ・パッション・オブ・クライスト」、即ち「キリストの苦しみ」について聞いたことがあるでしょう。今日、「ザ・コンパッション・オブ・クライスト」、即ち、「キリストの憐れみ」について話しましょう。今日の福音書では、「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」と言います。聖書のギリシャ語の「苦しみ」という言葉から、「パッション」という言葉が来ます。「コンパッション」とは、「一緒に苦しむ」と意味します。憐れみ」は、この事をよく表します。憐れみは、ただの理性的な考え方ではありません。憐れみとは感情の状態です。憐れみは苦しみを引き起こします。その心の苦しみを癒すただ一つの方法とは、あなたが憐れんでいる人のその苦しみを癒す事です。憐れみは、愛の結果です。愛は、あなたと苦しんでいる人との間にある関係・橋を作ります。その愛の関係の橋があるので、彼らの痛みがあなたのところに渡されてしまいます。私達はその痛みを分かち合います。憐れみは痛みのようです。癒しは、愛の薬です。癒しは、チャリティの慈善、又、慰めや希望を与える言葉を話す事によってきます。

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」イエス様はその群集を見て、心が痛みました、何故ならば、その人々を愛していたからです。イエス様は全能の神さまです。しかし、神様に痛みがある事は理解しにくいと思います。しかし、聖書は、神様の憐れみ、悲しみ、後悔についても話します。聖書は、神様の怒りの原因とは、神様の愛する人々の罪が神様の心を痛ませることによって起こるといいます。聖書の物語には、神様の怒りと憐れみの両方が沢山でてきます。アダムとエバが罪を犯しましたが、神様は彼らを滅ぼさないで、彼らを守る為に皮の服を彼らに与えました。神様は人間を創造した事を後悔しましたので世界を大洪水で滅ぼしました。しかしノアとその家族を憐れんで洪水から救い出しました。ソドムとゴモラーを滅ぼしましたが、ロトを救い出しました。エジプトの疫病や過ぎ越しの子羊と出エジプト。ダビデ王の罪や跡継ぎの約束。イスラエルの罪とバビロンへの捕囚(ほしゅう)や、約束の地への帰還{きかん}。罪がありますが、救い主のメシヤの約束。死がありますが、復活もあります。

イエス様の中に、私達は、憐れみによって表されている神様の愛を見ます。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」その群集は、避難民のように見えたでしょう。避難場所を探して、羊飼いの無い羊のようにイエス様の所に来ました。イエス様は、彼らが一番必要としているもの、一番求めていたものを彼らに下さいました。彼らは神様の御言葉を必要とし、欲しいと思いました。それで、イエス様はいろいろと教え始められたのです。希望と導きを与える神様の愛について聞く事が必要でした。その御言葉は、神の国での人生の送り方を彼らに教えます。

人々はイエス様の所に行きました。同じように、私達も今日イエス様の所に来ました。彼らは、イエスさまのところに来るのに海辺を遠くまで走りました。今日、教会に来る為に、私達のなかには、ある人は長く車を運転したり、バスに乗ったりしました。ある時、私達も迷っている羊のようです。時々人生をどう生きたらいいか全然分かりませんので、困ります。私達の中のある人は、本当に、苦しんでいます:体も、心も、霊的にも苦しんでいます。私達のなかのある人は、他の人を憐れんでいるので、苦しみます。例えば、お母さんが病気で苦しんでいますと、その愛の関係があるので、私達は心配で苦しみます。私達はイエス様の所に来ました。イエス様は私達を憐れみます。即ち、イエス様が私達の苦しみを分かち合います。痛みがありますか。イエス様はその痛みを知っていて、ご自分の体も痛みます。恐れていますか。イエス様はその恐れを知っていて、イエス様も恐れます。心配がありますか。イエス様はその心配を知っていて、私達の事を心配します。憂yuuうつで、落ち込んでいますか。私達の悲しみの為に、イエス様も悲しんでいます。自分の罪の為に悩んでいますか。イエス様はその罪を知っていて、私達を愛しますので、十字架上にいる時、その罪をご自分の上にとって下さいました。又、イエス様は私達のすべての恐れと心配をもご自分の上に取りました。それは、イエス様の苦しみの理由でした。私達を愛して、私達の苦しみを感じるので、十字架上で苦しんで死ぬ時、私達の苦しみがご自分の上にありました。彼の苦しみ、彼のパッションは、私達を罪と死から自由にして下さるコンパッションである憐れみです。

福音書の人々がイエス様の所に来る時、まず、イエス様は彼らに希望と慰めの言葉を語りました。彼は私達にも同じ希望と慰めの言葉を下さいます。私達が礼拝に来る時、礼拝の最初の言葉は、「父と子と聖霊の御名にとって」という言葉です。これは、全能の神様の名前ですので、この方は愛の神様であるので、私達を愛して、私達を憐れむと分かります。そして、礼拝の次の部分とは、罪の告白と赦しです。この赦しこそは、世界中の一番力強いものです。力があるのは、イエス様の死と復活は、世界中で一番強いものだからです。罪の赦しによって、神様は私達を憐れみます。罪の赦しによって、神様は私達への愛を表します。そして、それこそは、最も力強い愛と希望の言葉です。又、私達のクリスチャンとしての人生と祈りに希望を与えます。神様の愛と憐れみがあるので、私達は他の人を愛して憐れむ事が出来ます。

憐れみとは、神様が私達の苦しみを知っている事です。しかし、神様は又、私達の喜びと幸せをも知っています。神様は、私達と共に喜びます。学校では良い成績ですか。神様もうれしいです。仕事の昇進ですか。神様も喜びます。夕食は美味しかったですか。神様もよだれが出てきそうです。悲しみの中にも、喜びの中にも、神様は私達を愛しますので、私達と共にいます。日曜日の礼拝の時、私達は神様と共に喜びます。お祝いの時、食べ物がたくさんあります:誕生日のケーキ、乾杯、美味しい食事などです。教会の救いのお祝いは、主の晩餐です。共に、お祝いしましょう。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会



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