2012年4月29日
復活祭後第3主日
今朝、英語の礼拝で、二人の姉妹の為に堅信式がありました。去年の秋から聖書を学んで、又、聖書の正しい理解を得る為に、マルチン・ルターの小教理問答書をも学びました。クラスの毎回は、祈りと賛美で始まったので、私達の霊的な生活に於いても成長しました。又、日曜日の礼拝でロウソクをつけたりしました。彼女達が書いた「堅信式の証し」をも読んで下さい。
堅信の式の一部は、一人一人に聖句を与える事です。シドニー姉は今日の服新書の次の日課からのヨハネ10:27−28を選びました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」どうしてこの聖句を選んだのかと尋ねますと、「私は羊が好きだからです」と答えました。確かにそうです。シドニー姉は動物が好きです。聖書を学んだ時、旧約聖書の犠牲について話すたびに、抗議(こうぎ)しました。どうして罪の無い羊を殺さなければならないのかと。旧約聖書の動物の犠牲、特に羊の犠牲に反対しました。
聖書の中には、羊の使い方が大体3つありました:そのウールの毛、食肉として、又、犠牲の為でした。それで羊は大事なものでした。羊飼いは自分の羊を守らなければなりませんでした。先ず、狼のような野獣がいます。狼は羊を奪って食べて、羊の群れを追い散らします。その恐ろしい狼と戦ち向かうのは、勇気のある羊かいだけです。若い時のダビデ王は、自分のパチンコや鞭と杖を持って自分の羊の群れを守りました。雇い人でしたら、自分自身を守って狼から逃げます。しかし羊のオーナーである羊飼いは、その羊の為に特別な思いを持ちます。経済的な思いだけではなく、ペットに近い愛情がありました。羊飼いと羊の間には、信頼関係もありました。イエス様はその事をこのように言われました、「10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」羊に対してもう一つの危険は泥坊でした。又、もう一つの脅(おど)しとは、神殿で犠牲となって、死ぬ可能性です。
私達の為にこの福音書の意味を見ましょう。私達はその羊であり、イエス様は私達の良い羊飼いです。私達のウールや食肉として、又犠牲の為に、イエス様が私達を飼いません。それでは、なぜ私達を飼うでしょうか。私達に羊飼いが必要だからです。私達は守りと導きが必要です。そして私達とイエス様の間には信頼関係があります。イエス様はその事をこのように言われました。「10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」
今日も狼がやってきます。私達を奪ったり、食べたり、群れを追い散らしたりします。現代的な狼は、羊の毛を身につけてひそかに来ます。インターネットのアイデンテティの泥坊のようです。ある人はこのようにして全を失ないます。だまされます。法律的に大丈夫みたいでしても、第9の戒めを破る事です。人は犠牲のようになります。例えば、会社がその人の苦労の働きを利用して、その人に生きる為に必要なサラリーなどを十分与えない時です。又、宗教的なカルトもあります。神様の羊を奪って、その永遠の救いを奪い取ります。ですから教会の中で、私達はいつも神様の律法と福音を、忠実に説教したり教えたりします。それは良い羊飼いの群れの中で信者達を守る為です。
しかし先に言ったように、羊の為のもう一つの危険とは、神殿での犠牲です。無罪、シミもない羊は、罪を赦す為に祭壇の上に燃やされました。もしあなたはシドニー姉と同じように考えて、それが恐ろしいと思いましたら、あなたはこの聖書の箇所を正しく聞いています。人間の罪の為に無罪の羊を殺す事がひどいことだと思いましたら、神様に取って罪がどんなにひどいかを、理解することが出来るでしょう。聖なる神様は、私達も聖なる者であるように要求します。聖書の中では、神様は罪人の為に死ぬ事を命令します。それで、私達の罪の為に、私達も死ぬようにと神様は要求します。それは正義や義や正しい事と呼びます。
しかし愛と憐れみを持って、神様は罪人が神様の罰から逃れる方法をもうけました。人が死ぬ事の代わりに、羊がその代わりに死ぬ事です。人の罪がその羊にうつされます。このようして、人が聖なる者になりますが、羊は罪深い存在となりましたので、死ななければなりません。聖書の中では、これは犠牲や贖いと呼びます。しかし、世のすべての罪を赦す為に、世のすべての羊だけではまだ足りません。しかし、愛と憐れみを持って、神様は罪人が神様の罰から逃れる方法をもうけました。人が死ぬ事の代わりに羊が死にます。この羊とは、世の罪を取り除く神様の子羊です。イエス・キリストは御自分の上に私達の罪を取って、私達の代わりに死んで下さいました。このようにして、私達は聖なる者になりますが、神様の子羊は罪深い存在となって死ななければなりません。この理由でイエス・キリストは十字架上で殺されました。これは犠牲と赦しと贖いと救いと自由と呼びます。
イエス様は言われました、「10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」イエス様を知る私達は、自分の罪を告白します。イエス様が私達の罪を取り除く、神様の子羊であるので神様に感謝します。彼が私達の救い主、又良い羊飼いであるので喜びます。イエス様の守りの中で生きるのです。イエス様は悪より私達を守ります。私達が神殿の祭壇での犠牲にならないように私達を救い出して下さいました。
イエス様は言われました、「10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」今日の堅信式でシドニー姉とイングリド姉は自分の信仰を確認しました。同時に、教会はこの二人本当に主の群れの子羊であると認めます。教会の中にまだ入っていない羊がいるので、今日の福音書は伝道の為の呼びかけもなります。イエス様はその人々の羊飼いでもあります。神様はその人をも愛して守りたいと思います。それで私達の教会の中になくても、私達は私達の良い羊飼いのように私達も羊飼いとなって、その子羊をも守ります。すべての人々の人権と尊さを守ります。無罪の人が殺されたり、悪に利用されたりする事が恐ろしいと感じます。ひどいと思います。人間が羊よりはるかに尊いものです。それで必要のある人々の為に祈って、支えます。私達の良い羊飼いであるイエス様へと導かれています。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会