救いはすべての国民の為です。
2011
年8月14日マタイ15:21−28
15:21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。15:22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。15:23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」15:24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。15:25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。15:26
イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、15:27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」15:28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
今日の聖書日課のテーマは、救いが、すべての国民の為である事です。現在のクリスチャンとして、私達は以前からそれを習いましたが、昔は、そんなに明確ではありませんでした。主なる神様は父アブラハムに呼び掛けて、約束の地に彼を導きました。アブラハムの孫はヤコブでした。ヤコブの名前がイスラエルに変わりました。そして、イスラエルと言う人に12人の息子がいました。彼らは、イスラエルの12部族になりました。そして神様は、「イスラエルの主」と呼ばれました。ヤコブの家族の宗教のようでした。その家族だけの為のもの、イスラエルの国だけの国定宗教のようでした。旧約聖書の中で、いくつかの個所は別の国々の人々の為の救いと祝福について語りますが、ほとんど無視されたみたいです。どうして外国人が主なる神様を信じたいだろうとユダヤ人が思ったでしょう。そして、どうして主なる神様がユダヤ人ではない人を祝福するだろうかと思ったでしょう。
今日の福音書でイエス様は、イスラレルの国の外、フォニシアの
ティルスとシドンの地方に行かれたのです。ここは現在のレバノンの国になります。ここで、イエス様がその地元の女の人と出会います。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだのです。彼女が叫んでも、イエス様は彼女を無視します。イエス様は彼女を助けたくない訳ではないと思います。イエス様はこの時を弟子達に教える機会として考えたのでしょう。弟子達を試して、神様の国について教えました。この女の人はうるさくなったので、弟子達はイエス様にお願いしました。
「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」もし彼女はユダヤ人でしたら、弟子達は彼女をイエス様の所にすぐ案内したでしょう。しかし彼女はイスラエルの家族ではありません。カナン人です。神様の愛の外にいる人だろうと弟子達が思いました。イエス様は弟子達の考え方を表して言われました、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と。
これから、彼女は先生になります。弟子達に神様の愛と憐みの本当の意味を教えます。彼女は神様を本当に信じます。言います、
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」彼女は他の人の救いを奪おうと思いません。自分の正しさや自分の信仰や自分の国籍の為に神様の憐みを要求しません。主なる神様は恵み深く、憐み深い神であると知っています。神様はすべての創造物の世話をすると知っています。ですから、ただの普通のものの為に願っています。パン屑だけを願っています。神様の力を知っています。一つのパン屑にさえも、神様の完全な力があると知っています。イエス様は彼女に答えました。弟子達もその答えが聞こえるように大きい声で言われたでしょう。即ち、誰でも誠の神様を信じる事が出来、誰でも神様の愛を受ける事が出来る事を理解してもらいたいと思いました。言われました、
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、その瞬間に、その娘の病気はいやされたのです。これは偉大なる宣教命令の以前のお話ですが、それを反映します。マタイ28:19、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」又、ヨハネ3:16と同じです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
インタネットのニューズレターのような、毎週の日曜日の聖書日課に沿って、教会の祈りの見本があります。今日の祈りの中には、この祈りがあります。「どうか、キリストによって神様が私達を迎えて入れて下さったように、私達も他の人を迎える事が出来るように、特に、私達の間にいる新しい人を歓迎するように、神様の憐み深い広い手のように出来るように祈りましょう。」
言い換えますと、私達の間には、新しい人や外国人などがいるのを思い出させます。ルーテル教会に属していない、いやクリスチャンではない人もいるでしょう。私達が弟子達のようにならないように注意すべきです。その人を追い出すよりも、イエス様の所に案内するように。ある新しい人は、めんどうくさくてうるさいかも知れません。追い出した方が簡単でしょう。宗教的な理由で教会に来るのではないかも知れません。福音書の話には、そのカナンの女は、宗教の理由でイエス様の所に来ませんでした;娘の救い、娘の癒しの為に来ました。イエス様は彼女の悩み、その必要を見ました。憐れんで下さいました。しかし、この人はイスラエルの主なる神様を信じました。このようにイエス様に呼びかけました、「
主よ、ダビデの子よ」と。それは、「メシア、救い主」と同じです。人が最初に教会に来る時、いろいろの理由があります。しかし、イエス様の愛と憐みを見ますと、その時に救いの信仰がその人の心の中に誕生します。
この福音書のメッセージは、私達がイスラエルの子供達ではない事を思い起こさせます。私達は異邦人です。私達はイスラエルの国民として生まれていませんし、神様の国の国民として生まれていません。その上、私達は神様の愛と憐みに受ける価値のない罪人です。イエス様を十字架に付けたのは、異邦人のローマ人でした。私達のような異邦人です。しかし、十字架上で、イエス様は世の罪を取って下さいました。ユダヤ人の罪も異邦人の罪をもです。私達の罪を取りました。これは、私達に対する神様の偉大なる愛を表します。それで私達は、イエス様を探し、求める人に親切にします。私達が神様の家族に迎え入れられたので、私達も新しい人を迎え入れます。
ある時イエス様は、からし種一粒ほどの信仰があっても、山を動かす事が出来ると言われました。今日、パン屑程の信仰が、癒しと救いを与える事が出来ると見ます。聖餐式の時、小さいパンとブドウ酒をいただきます。しかし、完全な赦しと永遠の命がその中にあります。洗礼の時も、特にルーテル教会やカトリックの伝統の中で、たとえ水の一滴の中にも、
[又3滴、一つは父の為に、一つ子の為に、一つ聖霊の御名の為に]、その水の中には、清めと新しい生まれの完全な力があります。アーメン。
マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会