2014年6月22日
イエス様は12弟子達を福音を述べ伝える為に派遣しました。そのメッセージとは、マタイ10:7です、『天の国は近づいた』。又、このように命じました。「10:8 病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。」言い換えますと、弟子達は、今までにイエス様がなさった事をする事です。その働きが難しいとイエス様は教えました。人々は彼らをも彼らのメッセージをも受け入れません。迫害されて、裁判にかけられ、憎まれて、悪口を言われて、いじめられます。そのようになって、もうすぐ2000年たった今も同じです。しかしイエス様は、弟子達にガッカリしないようにと言われて、私達にも、ガッカリしないように恐れないように言われます。
今日の福音書の日課の中で、私の目についたのは24節と25節です。「10:24 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。25 弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」
例えば、もし人々がイエス様がバカだったと思いましたら、イエス様の弟子達や彼を信じて従うのは、尚更に大きな馬鹿だと思ったでしょう。もし人々が神様を信じなければ、あなたのメッセージをも信じないでしょう。聖書に書かれた人生や生活の生き方を認めなければ、もしあなたがこの社会の罪人と同じように送らなければ、あなたがバカだと思うでしょう。これは宗教的な事に限られていません。政治、愛国心、経済の地位もそうです。子供時代から始まります。隣の学校が競争すべき敵でしたら、その学校の生徒は頭が悪いでしょう。北朝鮮の国が嫌いでしたら、その国の国民皆が、人間的に欠けていると思うでしょう。キリスト教以外の宗教全部が間違っていると私が思いますので、その正しくない教えを信じる人はかわいそうと私は思います。政治も、人種も、性別も、社会的な地位もそうです。
それで、人々がイエス様を信頼しなければ、あなたをも信頼しないでしょう。もし人がマルチン・ルターが問題を起こす者だと思いましたら、すべてのルーテル教会の信者も同じだと思います。[実はそうかもしれませんが….]ですから、イエス様が弟子達を送り出した時、注意しました。もし人々があなた方を愛さなくても、ビックリしないで下さい、と。もし人々はイエス様に嫉妬したら、イエス様のメッセージが嫌いならば、そのメッセンジャーをも嫌いでしょう。人々は癒しと親切な助けが好きですが、あなたのイエス様から届くメッセージを要らないと思うでしょう。そのメッセージとは、『天の国は近づいた』。
それで、今日、説教者として、私は私の群れに言います。「ガッカリしないで、驚かないで下さい。馬鹿にされましたら、人があなたをイエス様のようだと思いましたら、まあ、それは一つの誉の言葉のようでしょう。」しかし、イエス様はそれら全にたえました。苦しみました、十字架上での死をも苦しみました。そして、復活したので、憎しみと悪魔と罪が乗り越えられています。それが私達に希望と力を与えます。『天の国は近づいた』と分かるからです。
しかし、今日、説教者として、私の群れにもう一つの事をも言います。即ち、人がイエス様を憎むので私達を憎む事だけではなくて、私達を憎むのでイエス様をも憎む事です。言い換えますと、私達の事のせいで、イエス様の評判が悪くなります。私達クリスチャンが罪人であるので、人々は私達のメッセージを信頼しません。クリスチャンの人がひどいスキャンダルな事をするので、教会全体がそのスキャンダルに巻き込まれています。例えば、有名な伝道師や一人の神父が犯罪を犯すと、教会全体が悪い評判PRを受けます。これは宗教的な事に限られていません。政治、国などの場合もそうです。例えば、この沖縄の例ですが、一人の米軍の兵士がひどい事をしますと、すべての兵士が悪いと思われています、又、米国の国の評判も悪くなります。同じように、一人の政治家が賄賂を受けたら、すべての政治家が悪いと思われています。
それで、今日、説教者として、私は私の群れに、何を言うべきでしょうか。山上の説教で、マタイ5:16で、イエス様は言われました、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」洗礼式の時、新しく洗礼を受けた人に火が付いている蝋燭を与えてその言葉を言います。その蝋燭の炎は、聖霊のようです、イエス様や全能の父なる神様のようです。洗礼によって神様は私達の心の中にいますので、私達はクリスチャンの人生を送る事が出来ます。
そして、そのクリスチャンの人生や生活はこのようなものようでしょうか。一方は、イエス様のように見えます。喜ばしい人生であるのは、『天の国は近づいた』からです。それが信者に希望と確信を与えます。ところで、天の国は、どんほど「近い」でしょうか。神様はどんなに近いでしょうか。あなたの聖書はどんなに近いでしょうか。祈る為に、祈りの姿で、あなたの手がどんなに近く合わせているでしょうか。愛する人はどんなに近いでしょうか。教会の祭壇はどんなに近いでしょうか。キリストの体と血はどんなに近いでしょうか。天の国はその程近いです!
クリスチャンの人生や生活はこのようなものようでしょうか。キリストの人生はどうだったでしょうか。馬小屋で生まれて、エジプトでの難民で、荒れ野で悪魔に誘惑されて、迫害されて、偽の証人がいて、正義がなく、ののしられて、十字架の上で神様に見捨てられました。しかし、友達がいました、『天の国は近づいた』と信じた人がいました。その人々はイエス様を愛して、感謝されていた、そんけいされていました。イエス様の生活ぶりは贅沢ではありませんでしたが、神様の恵みを楽しみました。弱い人、社会から追い出された人、悲しむ人を支えました。同じように、私達のキリスト者としての人生の中には、良いものも悪いものもあります。誘惑と戦いますが、赦しの慰めを大事にします。他の人にいじめられても、いつも神様の愛とクリスチャン同士の愛を知ります。淋しい時があっても、イエス様が私達と共にいると知ります。私達が他の人を愛する事が出来るのは、イエス様がその人を愛すると知るからです。他の人を大事にする事が出来るのは、イエス様もその人を大事にするからです。この地上の物、この世の物を楽しむ事が出来ます。感謝を持って、すべての良い物が神様から来ると知るからです。
精神的に、私は自分の心を探(さぐ)りたいと思いました。どうして、今日の福音書の日課のこの言葉が私の目に飛び込んで来たでしょうか。よく分かりません。私が別に迫害されていないし、別にいじめられていません。多分、私は、自分の救い主のように、もう少し同じようになりたいと思うからでしょう。『天の国は近づいた』と本当に信じるからでしょうか。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会