記憶は希望をもたらす
復活祭、2007年、4月8日
復活祭は、いつも私にとって特別な時です。小さい時から、イースターはいつも喜びの時で、希望の時でした。子供の時代のあるイースターを思い出します。教会の玄関には、いつも桜の花がかざられて、すばらしいイースターの讃美歌を歌いました。礼拝後、いつもおばさんの一人の家に行って、イースターの持ち寄りのパーティに出席しました、食べ物を沢山食べて、いとこも沢山いましたのでよく遊びました。このようなもは楽しく幸せ、ですが、今日、イースターの希望と意味を与えるものは、食べ物や遊びではありません。そのものはもう無いです。私の希望にあるのは、イースターの天使の言葉をおぼえるからです、
「ルか25:5「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」」友達や親戚やパーティなどは過ぎ去ってしまうでしょうが、主の御言葉はいつまで残ります。今朝、私達には復活の希望と喜びがあります。しかし、最初のイースターの朝、イエス様のお墓に行った婦人達はもう既に希望を捨ててしまいました。彼らはイエス様に大きな希望を持っていました。神の国、平和、すべての人々の為の愛の希望でした。ユダヤ人のためにイエス様が社会的、経済的な正義をもたらして、貧しい人や力の無い人々がもう圧迫されない世界を作って下さると言う希望でした。しかし、イエス様が逮捕され、十字架上で殺され、ほうむられました。もう3日目になって、彼らの希望は完全に消えました。イエス様が何も変えることが出来なかった感じて、この世はいつもと同じだと思いました。
ですから、お墓につくと、驚きました。何か正しくないと思いました。イエス様の体が見当たりませんでした。そのため途方に暮れてしまいました。この世の中の物が変わったのでしょうか。しかし、体があっても、無くても、イエス様が死にましたので、イエス様のすべての約束も死んだと思いました。そして、お墓の所で、輝く衣を着た2人の人がそばに現れました。この天使の前で、婦人達が恐れて地に顔を伏せました。本当に、この世の物が変わりました、天使の話しによって、神様の臨在が現れました。天使が話したのは、イエス様の約束が破られていませんと言いました。イエス様の予言を思い出しなさいと言いました、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架に付けられ、3日目に復活する事」と言う予言でした。その時、婦人達は、イエス様がご自分が復活すると予言した事を思い出したのです。その記憶は彼らに希望を再び与えました。それで、行ってすぐ弟子達にすべてを話しました。最初は、弟子達はこのことを理解する事が出来なかったので、信じませんでした。彼らの希望も、イエス様が殺された時に壊されたので、何も理解する事が出来ませんでした。しかし、ペテロはお墓に行って、お墓の状態を見て驚きました。その亜麻布(あまぬの)しかなかったので、イエス様の体が盗まれた訳ではなくて、イエス様が復活したことの証拠です。イエス様が本当に生きているとわかりました。ペテロと他の弟子達は、イエス様の約束を思い出した時初めて信じました。イエス様の約束は真実です!救いがあると分かりました。
私達の希望と夢も消える事があるでしょう。友達や親などとの約束をおぼえて、その約束が破(やぶ)れましたら、私達の希望も破れます。その約束だけをおぼえましたら、ただ悲しく、むなしく思うでしょう。しかし、イエス・キリストによる神様の約束をおぼえましたら、消える事も無い、破られる事も無い希望を持つ事が出来ます。この世の中においでも、イエス様の約束があります、即ち、愛、平和と新しい生き方です。死と復活の約束です。そして、イエス様はその約束を守って下さいました。
復活祭で、私達は天使達が言う通りに、イエス様の約束をおぼえますので、私達のお祝いは希望で満たされています。そのイースターの希望が喜びをもとらしていますので、私達の日々は祈りと賛美で満たされます。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会