復活祭、2010年4月4日
イエス様はどこですか?
キリストは甦りました!本当に甦りました!
その最初の復活祭の朝、婦人達はお墓に行って、イエス様の体を探しました。見つけられませんでした。イエス様はどこだろうかと不思議に思いました。そして、天使はイエス様が甦りましたと教えました。 婦人達はそれを弟子達に告げました。ペテロはお墓まで走って行きましたが、お墓が空っぽなのが分かりました。イエス様の体はどこでしょうかと不思議に思いました。キリストは甦りました!もうお墓の中にいません。彼らはイエス様を見つけられませんでしたが、イエス様は彼らを見つけました。イエス様は婦人達や弟子達に現れたので、イエス様は本当に甦ったと彼等は知りました。ハレルヤ!
今日のイースターの朝、私達もイエス様を探します。イエス様がお墓の中ではないと分かりますが、どこに彼を見つけられるでしょうか。しかし、よく考えますと、私は思いますが、もしかしたら、イエス様をまだお墓の中にいるように見つけたいのでしょうか。もしそうでしたら、イエス様は私達の人生の邪魔をしないでしょう。私たちは自分の好きなように何でも出来るからです。私たちの良心は悩みません。好きな事なら何でも出来ます。限りがありません。しかし死ぬ事で全ては終ります。それで限りがあります。この世のあるものを乗り越えます。ある問題を解決し、ある病気から治ります。しかし死を乗り越える事が出来ません。その理由で、イエス様をお墓の中に見つけたくありません。もしイエス様がまだ死んでいましたら、永遠の命の希望がありません。赦しの希望がありません。人生の為の導きと助けへの希望がありません。ですからイエス様を見つけなければなりません。しかし、イエス様をどこに見つける事が出来るでしょうか。
どこを探しましょうか。どこに神様を探しましょうか。自然のなかでしょうか。春の季節の中でしょうか。イースターエッグのバスケットの中でしょうか。今朝、私達が教会に来ましたのは、ここは探すべきところであると分かるからです。ここでイエス様を見つけます。まず聖書の中で見つけます。私達がイエス様を見つけるのは、彼がまず私達の所に来られるからです。私達が読む話しの中に来ます。イエス様は十字架上で死んで三日目に復活しました。ただこの言葉を読む事によって、イエス様は私達に来られます。信仰によってここでイエス様を見つけます。それから、賛美や祈りや説教の中で、イエス様の事を更に知ります。私達の罪を赦す為に死んで下さった事が述べ伝えられています。死の最後の力を滅ぼす為に死にました。私達も甦る為にイエス様は復活しました。彼は三日目に復活しましたが、私達は世の最後の日に復活します。彼は甦られたので、私達は今から喜びと平和を持って神様の愛の内に生きる事が出来ます。
イースターの福音のメッセージとは、私達がイエス様を見つけることよりも、イエス様が私達を見つけてくださった事です。クリスマスの時、ベツレヘムで生まれたのは私達を探す為です。貧しい人をも、捨てられた人をも、主なる神様を愛する人々も見つけました。十字架上で私達の罪を見つけて、それを御自分の上に取りました。しかし、三日目に再び命を見つけました。お墓をやぶり. 罪と死の束縛(そくばく)から自由になりました。イエス様は先ずのその婦人達を見つけて、それから弟子達を見つけて、そして今度、私達を見つけました。
あなたはイエス様を見つけましたか。イエス様があなたを見つけたでしょうか。それで、今日その信仰を告白しましょう。言葉や賛美歌や祈りや礼典によってそれを告白しましょう。
アーメン。
マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会