復活祭、2012年4月8日
日曜日の朝早く、マグダラのマリアは、イエス様が寝かされたお墓に行きました。イエス様がそのお墓の中にいるだろうと思いました。死んでいるのを見るだろうと思いました。希望と信仰はもう既にありませんでした。しかしお墓に着きますと、イエス様はいませんでした!そのはずはないので、その空っぽのお墓を恐れて怖がりました。非常に恐れました。弟子達の所に走って行って言いました、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私達には分かりません。」と。心は完全にかき乱されていました。主の死んだ体を見つけられませんでした。
マリアにとっては、その空っぽのお墓の意味とは、恐れを始め、失望と恐怖と憎みと不信仰と地獄と罪人に対する神様の裁きを意味します。パニックの状態になって、弟子達に知らせに走って行きました
今朝はイースターの福音書を読みました。読みながら、私達はマグダラのマリアのように、私達もイエス様が寝かされたお墓に行きました。マリアと違って、私達はそこでイエス様を見る事を期待しません、私達には希望と信仰があるので、死んだ者を見る事を考えません。しかし、ちょっと想像して下さい。もしそこに着きますと、そのお墓の入口の前に大きい石がまだありましたら、そして、横に転がして、その麻布に巻かれていたイエス様の死んだ体がそこに、ありましたらどうでしょうか。そのイースターの朝のマリアの最初の気持ちと同じでしょう。即ち、突然恐れるでしょう。私達のイエス様に置かれた希望が消えるでしょう。恐れと恐怖に覆(おお)われるでしょう。神様の裁きと地獄のおどしを感じるでしょう。
しかし、今朝マリアと同じように、私達は空っぽのお墓を見つけます。しかし、マリアと違って、私達はその話の続きを知ります。イエス様が甦られたと知ります。それで、その空っぽのお墓の中に私達は命を見ます。希望と驚きと勇気と愛と信仰と赦された罪人に対する神様の憐れみを見ます。
マリアにとっては、その空っぽのお墓は変な物で恐怖を引き起こしました。しかし、私達の為には、その空っぽのお墓が当たり前の物のように成って、慰めと確信を与えます。お墓が空っぽであることの意味とは、キリストが再び戻る時、私達も復活する事です。これはイースターの希望と喜びです!
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会