2015年4月5日、復活祭
キリストは復活しました!本当に復活しました!ハレルヤ!
その最初のイースターの日、その3人の婦人は朝早く起きまして、イエス様のお墓に行きました。イエス様のお葬式を終えたいと思いました。イエス様の体に油を塗るために香料を買って、それを持って行きました。イエス様のお墓が岩を掘って作った墓で、墓の入り口には大きいな石を転がしておいたのです。その3人の婦人達は、自分達の力でその石を動かす事が出来ないので、互いに思いました、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と。園丁か誰かがしてくれるだろうと思ったでしょう。
しかし、お墓の所に着きますと、石がもう既にわきへ転がしていたのです。イエス様の体がそこにありませんでした。不思議と思ったでしょうが、その天使を見た時、恐れました。白い長い衣を着た若者がお墓の中に座っていました。若者はイースターの福音を言いました。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。お墓の入口を開ける必要がありました。それは、その婦人達や後で弟子達が中を見て、イエス様が本当に復活したのを見る為でした。
ある人は、そのお墓の入口を出来るだけ早く閉じたいと思います。ユダヤ人の宗教の指導者はお墓を開けて欲しくありませんでした。その人々こそがイエス様を殺したかったからです。そして、もしイエス様が復活しましたら、イエス様が本当に救い主であるので、彼らが間違っていた事が明らかになります。もう一つのクループ、お墓を閉じたいグループとは、無神論者達です。もしイエス様が復活しましたら、神様の存在の証拠になるからです。誰も事実を見ないように、お墓の入口にその大きい石に置きたいと思いました。もう一つのグループとは、罪を悔い改めたくない罪人です。もしイエス様が死んで甦りましたら、罪が裁かれているからです。
しかし、お墓を閉じる事が出来ません。イエス様は復活しました。 ハレルヤ!
石が既にわきに転がしてあったのは、婦人達や弟子達が中を見て、お墓が空っぽであると見る為でした。イエス様が墓から出る為に、石を動かす必要がありませんでした。
それでしたら、どのようにイエス様が出られるでしょうか。ヨハネの福音書やルカの福音書で(ヨハネ20:19、ルカ24:36)、鍵がかけていても、イエス様が弟子達がいる部屋に入る事が出来ました。イエス様の復活した体は、普通の物質に限られていませんでした。その同じ力によって、十字架上で死んだ体に命を与えました。復活の栄光を与えられて、お墓から出て来られました。しかし、入口を開けるのは、イエス様の為によりも、マリアと名付けられた女の為でした。彼女がイエス様がもうお墓の中にいない事を見る必要がありました。空っぽのお墓を見る事が必要でした。
又、私達も空っぽであると見る為でした。婦人達の証しによって私達も信じます。信仰をもって、再びお墓の中を見て、まだ空っぽであると見ます。イエス様の体を見つけられないので、良かったです!
私達はイエス様を見つけませんが、イエス様は私達を見つけます。天使は女の人達に、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と教えました。又、エマウへの道でイエス様は二人の弟子を見つけました(ルカ 24:13ff)。その後、エルサレムの家で、その後、ガリラヤで弟子達を見つけました。ダマスコへの道で聖パウロを見つけました(使徒9章)。そして沖縄で私達を見つけました。イエス様は私達のもとに来られます。御言葉や聖礼典によって来られます。福音が話された時、どこでも、そちらに来られます。
ある時、私達の心はその岩に掘ったお墓のようです。不信仰やこの世の罪は、大きい石のように、私達が出られないようにします。その不信仰のお墓の中にいる事は、キリストと共に復活しない事です。
聖霊は私達の心のドアを開けて下さるので、私達はイエス様の事を見て分かります。私達の罪を赦す為にイエス様が十字架上で死んで下さった事を信じます。私達が自分の罪の為に死ななくても良い為に私達の代わりに死んで下さいました。イエス様は私達の為に地獄を苦しみました。そして、三日目に、甦りました。それがイエス様には、命と死に対して力があると表して、私達も死んだ後に命を得る事が出来る事を表します。これはキリスト教会の信仰、キリスト教会の希望、キリスト者の人生です。
天使は婦人達に福音の挨拶を言いました。その石が今もわきへ転がしています。福音書の御言葉を通して、そのみ使いが今日もいます。私達に空っぽの墓に案内します。私達にも言います。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会