福音を聞いたり語ったりする事
2009年9月6日
聖霊降臨後弟14主日
7:31 ・れからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、・の上に手を置いてくださるようにと願った。7:33 ・こで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指を・の両耳に差し入れ、・れから唾をつけて・の舌に触れられた。7:34 ・して、天を仰いで深く息をつ・、・の人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。7:35 すると、たちまち耳が開・、舌のもつれが解け、はっ・り話すことがで・るようになった。7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。7:37 ・して、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
イエス様が人を癒やす時、よくその人に触ったり、その人の手を取ったりしました。ある時、特別な事を話しかけました、例えば、「タリタ、クミ」(マルコ5:41)や「エッファタ」です。今日、耳が聞えず口のきけない人を癒やすために、特別な方法で話したり、触ったりしました。
この人は耳が聞こえないので、イエス様について聞く事が出来ませんでした。しかし、彼の友達がイエス様についての話を聞いた事があったので、彼をイエス様の所に連れて来ました。イエス様はその人を群衆の中から連れ出しました。それは、イエス様は群衆の楽しむサーカスのショーを行わないからです。彼は耳が聞こえないので、イエス様は特別な手話を使いました。イエス様は「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで」。。。(これは祈りです。天を仰ぐ理由は、その人がこの癒やしが天国から来ると分かるためです。)。。。「深く息をつき」。。。(イエス様の心の深くから話された言葉で)。。。「その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、」。。。(アラム語で)。。。「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」
イエス様が「エッファタ」と言われた時、その人がそれを聞こえなかったはずです。しかし、イエス様は「エッファタ、開け」と言われた時、その人はそれが聞こえました。イエス様の命令は、言われた瞬間に、その人を完全に、すぐに直しました。そして、その癒しの言葉を聞いたのは、それ以前に耳が聞こえない人だけではなくて、町中の多くの人々がその言葉を聞いたみたいです。何故ならば、その言葉は、耳が聞こえない人の耳を開きましたし、町の人々の耳をも、心をも開けたでしょう。それで、彼らはイエス様が、神様から来られた素晴らしい預言者だと分かりました。その人の舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになったと同じように、人々の舌が解けました。彼らもはっきりと話しました。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」と。イエス様は彼らに、この事を誰にも言ってはいけませんと言われて、人々に口止めをされましたが、口止めをすればするほど、かえって、ますます言いひろめたのです。皆さんはすっかり驚きました。もしかしたら、その人の舌を癒やした時、その癒やしの力が「エッファタ」と聞いた人々の所に溢れて、皆さんが良い知らせを語る事を止める事が出来なかったでしょう!
聴覚障害は耳の病気ですが、神の御言葉を聞こうと思わない心の霊的な病気もあります。マルコ4:12で、イエス様はこの悩みについて話して、イザヤ6:9を引用します、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」
古いことわざがあります。「見ようと思わない人ほど盲人がいない」と。このようにも言い換えます、「聞きたくない人ほどつんぼがいない」と。ものを聞きたくない時、人は耳を閉じます。時によってそれは良い事です。やかましい、うるさい大きな音からや愚かな話からや誘惑から自分を守る為です。しかし、人間には、知恵を聞こうと思わない頑固な性質があります。例えば、神様について、聖書の中の明確な神様の啓示よりも、自分の想像の方が好きです。自分の罪を告発する言葉を聞きたくありません。自分の家族の習慣を乱す言葉を聞きたくありません。人が福音を聞いて恐れるのは、聞いたら自分の人生を変えなければならないと思うからです。そして、自分の家族や友達からサポートがない時、特に難しいです。ですから、良い知らせを述べ伝えたいと思う人々、宣教師や伝道師などはいらいらするでしょう。私達は話すことが出来ますが、人々は聞きたくありません。
いや、それよりひどいと思います。ただ聞きたくないよりも、聞く事が出来ません。罪の為にやかましい音や雑音が多すぎて、神の御言葉が人の心に入る事が出来ません。例えば、男の子(又男の人)がテレビを見ている時、お母さんは「ご飯だよ」と言っても、聞こえません。「ご飯だよ!聞きませんでしたか。」「いいえ、聞きませんでした。」実は、聞きませんでした。夢中になったので、本当に聞こえませんでした。罪は同じです。夢中になってしまって、福音が聞こえません。又、聞こえても、人は福音を理解する事が出来ません。イエス様は、ユダヤ人やピラトの前に裁かれた時、自分の為に何の弁明も話しませんでした。その時点では、何を話しても、彼を殺そうと思う人はそれを正しく聞かないでしょう。しかし、その後の十字架上からのイエス様の言葉には、私達の心を指して入る力があります。
「わたしは、かわく」(ヨハネ19:28)。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)。 「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。「すべてが終った(口語)成し遂げられた(新共同訳)」(ヨハネ19:30)。「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)。
この十字架上の言葉は赦し、愛と救いを語ります。神様はイエス様に対して耳が聞こえない者ではありませんでした。イエス様の叫びを聞き入れました。イエス様は「すべてが終った」と言われた時、救いの働きが終わったと意味しました。私達の罪が赦されていました。
その言葉を聞いた私達は、今度その言葉を話します。私達の言葉は賛美と感謝で満たされています。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」と私達も言います。そして、これは今日の旧約聖書の日課の成就です、イザヤ35:5-6、「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」
福音書の中では、良い友達は耳が聞こえない友をイエス様の所に連れてきました。マルコ2章では、良い友達が歩けない友をイエス様の所に運んで、家の屋根の穴から降ろしました。又、親たちが病気の子供のためにイエス様にお願いします。ですから、クリスチャンたちは病気や苦しんでいる友達や家族の為に祈る事は偶然ではありません。私達の舌が解かれているので、自然に、他の人の為に祈ります、特に、心の中で神様の御言葉をまだ聞いた事がない人の為です。神様は私達の祈りを聞いて入れて、御自分の御言葉を話して下さいます、愛と癒やしと救いの言葉です。
アーメン。
マイケル・ニアフッド
沖縄ルーテル教会牧師