2008年11月23日
マタイ25:31−4625:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
一生賢明探さなくてもいいです。私達の回りにいるからです。それは、飢えている人、のどが渇いている人、旅をする人、知らない人、裸の人、病気の人、牢に入れられた人などです。イエス様はこれらの人々を「最も小さい者」と呼びます。又、彼らをご自分の兄弟姉妹と呼びました。その人々が見つけやすいのは、その人々の数が毎日増えているからです。増えることの理由の一つとは、彼らが無視されているからです。見すてられているからです。政府からも、自分の隣人からも無視されています。私達もニーズがある兄弟姉妹を見て見ないふりをする時があります。何故なら自己中心的な理由で、彼らを助けたけたくないからです。しかし、彼らの叫びや涙が、裁き主なるキリストによって聞かれています。
勿論、私達は言い訳を言います。時間がない。分かち合う為のお金が足りない。どうやって助けたらよいか分からない。などなど。しかし一番ひどい言い訳とは、「私はあなたを見なかったと言う事です。あなたが困っていた事をしりませんでした。あなたがお腹をすかしている事、あなたが淋しかったと分かりませんでした。」勿論、どうして私達が他の人の困る事を見る事が出来ないかと言いますと、それは、私達が自分の事だけを見るからです。自分の事だけに関心を持っているからです。キリストが言われたのは、私達がその「最も小さい者」の為に何かをしたら、また何もしなかったら、それが、キリストご自身の為に何かをしたり、何もしなかったりすることになります。「いつ私達があなたを見たでしょうか。あなたの白い衣を着て、いつあなたを見たでしょうか。私達の淋しい隣人の中であなたを見えなかったし、アフリカの飢えている子供の絵の中にあなたを見ませんでした。もしあなたを見たら、確かにあなたを助けてあげたでしょう。」勿論、私達はイエス様を助けたでしょう。イエス様を助ける理由とは、裁きの日に、私達が羊の中にいたいと思うからです。それは、自己中心的なチャリティーです。それは実は、自分で自分を助ける事です。困っている人を助けて上げる事よりも、自分の事を大事にします。私達は、名誉(めいよ)が欲しい、税金が戻って欲しい、救いが欲しいと思います。
イエス様は困っている人々を愛しますので、その人々のそばにいます。彼らの苦しみの中、飢え乾きの中、恥の中にもいます。イエス様は彼らと共にいますが、私達がイエス様を見る事が出来ません。しかし、見なくても、責任を取らなければなりません。王様は来られます。王様が来てからでは、もうおそいです。言い訳を言う事にはもう遅いです。自分が見る事が出来ない理由を言う事にもう遅いです。
私達には救われる価値がありません。しかし、その理由の為に、裁き主が私達の為に来られます。最初に来られた時、裁き主のような者として現れませんでした。その困った人の一人のように来られたのです。困っている人の友達や彼らを助ける人として来られました。彼らと同じようになる為に来られました。彼も苦しみを受けました。十字架上で死にました。そして、その十字架上で、のどが渇きました。お腹がすいていました。裸でした。淋しかったです。死にました。お墓の牢に入れられました。彼は、困っている人の一人になり、御自分の兄弟姉妹の最も小さい者の一人になりました。
ですから、希望があります。イエス様には希望があります。私達の一番大きな希望とは、イエス様が私達の必要を見ておられるからです。イエス様は私達の霊的に目が見えない、心が見えない状態が分かります。私達が他の人のニーズを見る事が出来ない状態が分かります。私達の希望とは、聖霊を受ける事です。聖霊は私達に信仰を与えます。私達の目、私達の心を開いて下さいます。その時、私達はイエス様を見ます。十字架上のイエス様を見ます。ご自分の上に、すべての飢え乾き、すべての淋しさ、裸さ、恥がありました。ですから、私達は、この世の困った人々の人生の中でイエス様を見る事が出来ます。最後の裁きの日にキリストの左にいる人々は、貧しく困っている人々の中にイエス様を見ることが出来なかったと言います。しかし、今、私達は見る事が出来ます。十字架上にいる時、イエス様には、世の罪がありました。私達の自己中心的な罪もイエス様の上にありました。この赦しは、私達の心を開くので、他の人を見たり、彼らの事を感じたり、彼らを愛したり、彼らの為に親切な事をしたりします。イエス様は、その人々を兄弟姉妹と呼びます。私達をも、ご自分の兄弟姉妹を呼びます。
勿論、私達に分かるように、私たちが救われているのは私達のする良い行いによってではありません。私達のチャリティーと愛が決して充分ではないからです。私達がキリストの愛と憐れみとチャリティーによって救われています。ですから私達が自由になって、食べ物や飲み物や着物などを困っている人に与える事が出来ます。これらの行いは救いを得る為にしません。兄弟姉妹が困っているからします。ですから、羊がびっくりします。キリストにその水を飲ました事に気がつきませんでした。彼らは自分の事を考えていなかったからです。他の人の事を考えていたのです。ですから、王様の言葉を聞く時に嬉しいです。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それで、私達の信仰と救いが、私達のイエス・キリストに対する信仰に基づいています。彼は私達のニーズを見て、私達を助けて下さいました。私達も、キリストが私達に語る言葉を聞く時に嬉しいです。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』
アーメン。