『私はキリストにつく』
(1コリント1:12)2011
年1月23日イエス様は漁師に
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。二人はすぐに網を捨てて従ったのです。(マタイ4:19−20)。あなたはどうですか。何もかも捨てて、イエス様に従うようにと挑戦(チャレンジ)された事がありますか。弟子達と同じ事を考えた事がありますか。自分の家族と仕事を後にして、神様の仕事だけをしたらどうでしょうか。例えば、教会の専門の仕事やアフリカへの宣教師になることや教会のプロジェクトの為に参加する事はどうでしょうか。面白いかもしれませんよ。すごい冒険になるかも知れません。世界を変えるでしょうか。自分自身を変えるでしょうか。大体のクリスチャン信者にとって、それをするのは良い事だろうと思いますが、実際的に言うと、『僕には出来ない』と思うでしょう。自分の家族にたいする義務があります。自分の家族を守らなければなりません。仕事をして生活の為のお金を得る必要があります。いろいろの約束がありますので、出て行く事は出来ません。外国語が出来ませんし、それをする技術やトレーニングもありません。その上、ある場所はクリスチャンの宣教師の為にとって危ないです。殺される事もあります。ですから私達は出かけていって、イエス様に従って行くことが出来ないと言い訳を簡単に作る事が出来るでしょう。
しかし良く考えますと、言い訳を言うというのは、それ程イエス様について行きたいと思わないからでしょう。言い訳を言うのは、するべき事をしない事への、自分に対する慰めになるからです。もしイエス様について行きましたら、自分の楽な生活が乱れると心配するからです。深い霊的な、神学的な事を考えますと、自分が分からないので、面倒(めんどう)くさいと思うことでしょう。もしかしたら自分が完全に献身していないクリスチャンだと思うからでしょうか。又、キリストの働きより、自分の働きの方が大切だと思うからでしょうか。教会の働きは一番大切と思わないでしょうか。キリストについて行く事よりも、やりたい事があるでしょうか。
しかし、もう一つの問題もあります。イエス様について行く前に、しなければならない事があります。弟子達を呼ぶ前にイエス様は自分の宣教の働きを、この言葉で始められたのです。
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と。イエス様について行く前に悔い改める必要があります。『悔い改め』と言う言葉の意味とは、先ず、自分の罪の為に「ごめんなさい」と思って、その罪の赦しをもらって、そして聖霊の助けによって、自分の罪深い人生を変える事です。これはイエス様に従う事の一番難しい部分です。先ず悔い改める必要があります。自分の人生を変えようと思う事で、自分の人生の行く方法を変える事です。聖書のギリシャ語の「悔い改め」という言葉「メタノイア」とは、先ず自分の考え方を変えて、それで自分の人生の方向をも変える事です。自分の行く方向を逆にして、180度転回し行く方向を変える事です。それで、この世のしきたりに従って行く事よりも、イエス様について行く事です。悔い改めとは天国への道を歩む事です。もしイエス様の後について行かなければ、罪と死と悪魔の後について行きます。そして、この世のもの、悪魔の誘惑、私達の頑固な心は強くて、イエス様について行きたくありません。いや実に、私達はイエス様について行く事が出来ません。私達が神様への道を歩む事が出来る為に、イエス様は先ず弟子達や私達のもとに来る事が必要でした。言われました、
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」裁判の時、イエス様はポンテオ・ピラトに言われました、「私の国は、この世には属していない」(ヨハネ18:36)。イエス様の王座は十字架でした。ここで私達は神様の愛を見ます。その愛は私達をイエス様へと引き寄せます。その犠牲的な愛が私達の罪を赦します。悔い改めの為の力と勇気を与えます。即ち、イエス様について行く力を与えるのは、私達の罪が赦されて、私達が罰を受けないと分かる時です。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」救いが近づいたので悔い改めよ。その命令の中には聖霊の力があります。それは私達の洗礼の約束と力です。「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう。」
イエス様は私達をどこに導くでしょうか。どこまでその漁師を連れて行ったでしょうか。その導かれた旅で、彼らは神の国はどのものであるか見つけました。彼らはイエス様の教えを聞きました。奇跡を見ました。イエス様の愛を見ました。イエス様の勇気も見ました。その苦しみと死も見ました。そして復活も見ました。私達もイエス様に従って行く時、さまざまな冒険をします。いつも楽しいわけではありません。試練を初め、苦しみ、誘惑、問題と恐れもあります。しかしイエス様はいつも私達と共にいます。そしてイエス様がいますので、又、私達が彼の後に行くので、イエス様は天国への道にと導かれます。その悲しみと涙と心配がある時、私達はなお更にイエス様の近くに行き、迷わないようにイエス様の手をしっか握ります。ペテロとほかの弟子達は、すべてを後にしてイエス様に従って行きました。私達の中でそれをする人がいるかも知りません。しかし、聖霊は多分あなたと私に、弟子達と違うイエス様に従う方法を教えるでしょう。もしかしたら、私達がすべてを捨てる必要が無いでしょう。即ち、私達のミッションとは、自分の家族や友達などに福音を述べ伝えるでしょう。そのミッションの為に自分の財産を捨てないで、むしろ神様から下さった資源を使います。遠い所に行かないで、自分の家に留まります。それはペテロ達の仕事より難しいかもしれません。私達は毎日の生活の中でイエス様について生きます。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会