私達の人生の実

聖霊降臨後第5主日
2010年6月27日

ガラテヤ5:1, 13-25
5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。….
5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。5:15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。
5:16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。5:17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。5:18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。

霊の実について説教したら面白いと思いました。それで準備として、マルチン・ルターのガラテヤ人への手紙の注解書を本棚から出しました。1519年の大学の講義の本です。ですから今日の説教は、ちょっとブックレポートのようでしょう。

ルターが最初に言ったのは、「霊」と言う言葉は「聖霊」の意味ではなくて、霊的な人間の霊です。それは「肉の業」の反対です。肉対霊、古いアダム対キリストによる新しい人です。ですから人の内に2本の木があるようです。「肉」は悪の木でアザミとトゲしか実らせないので、「霊」は良い木で、ぶどうとオレンジとりんごのような物を実らせます。肉からは行いの業が出ますが、霊からはよい実が出ます。悪の業は害を人に与えますが、霊の実は人の役に立ち、喜びを与え良い事をします。

勿論、人の人生の良い実が神様の目に良いものであるのは、聖霊がその人の人生に力を与える時だけです。ですから聖霊の導きに従う人は実を結ぶと、聖霊が本当にその人の心、その人の霊を導くと表します。それで「霊による人生は」「肉による人生」と違います。

肉の業と同じように、霊の実は目で見えない隠れているものではありません。肉の業は明らかです。それは、姦淫(かんいん)、わいせつ、好色(こうしょく)、偶像(ぐうぞう)礼拝(れいはい)、魔術(まじゅつ)、敵意(てきい)、争い(あらそい)、そねみ、怒り(いかり)、利己(りこ)心(しん)、不和(ふわ)、仲間(なかま)争い(あらそい)、ねたみ、泥酔(でいすい)、酒宴(しゅえん)、その他このたぐいのものです。霊の実もあきらかです。霊的な人の振る舞いや毎日の活動の中に見る事が出来ます。すなわち:愛であり、喜び、平和、寛容(かんよう)、親切(しんせつ)、善意(ぜんい)、誠実(せいじつ)、柔和(にゅうわ)、節制(せっせい)です。

1.先ず愛です。愛は感情のことだけではありません。ただの気持ちよりも、行動です。もし憎みが他の人を滅ぼしたいと思うとしたら、愛は他の人を強くしたいと思います。神様の為の愛があり、隣人の為の愛もあります。私たちに愛が有るかどうかのテストをするのは問題が有る時です。災難や病気が私達を襲うとき、また精神的に悩むとき、十字架上で苦しむ為にイエス様を使わした事と同じように、まだその時も私達は神様を愛し、ほめたたえます。隣人が私達にひどい事をする時、憎まれるのが当然と思われるとき、このときこそ愛は希望と信仰を持つ原動力になります。又、この愛の反対は、姦淫(かんいん)、わいせつ、好色(こうしょく)です。何故ならば、愛は自己(じこ)中心的ではないし、他の人を大事にするからです。

2.二つ目の霊の実とは喜びです。神様に対する喜びも、隣人にも対する喜びもあります。神様の素晴らしい恵みのゆえに嬉しいです。世の嵐の中でさえも、主を賛美して礼拝します。これは大きな魚の中で見たヨナの喜びです。これは燃える(も)盛る(さか)炉(ろ)に投げ込まれたダニエル書の中の3人の喜びの歌です。私達の毎日の燃える(も)盛る(さか)炉(ろ)の喜びです。隣人の為の喜びもあります。その人の持ち物やその人がする偉い事をしっとしないで、彼らに喜びと幸せと成功があるように望みます。このような簡単な喜びはとっても力強いです。多くの悪の業に打ち勝ちます。肉の業の反対です。例えば: 敵意(てきい)、争い(あらそい)、そねみ、怒り(いかり)、利己(りこ)心(しん)、不和(ふわ)、仲間(なかま)争い(あらそい)と、ねたみです。

3.三つ目の御霊の実とは平和です。私達がキリストの憐れみを知っているので、神様との平和があり、私達の良心が清いです。ある時、私達はこの平和を全然理解する事が出来ません(フィリピ4:7)。例えば自分の人生の中で、神様が見えなくても、すべての患(わずら)いを神様の御手に委(ゆだ)ねてリラックスする事が出来ます。第一ペテロ5章7節、「思い煩(わずら)いは、何もかも神にお任(まか)せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていて下さるからです。」マルチン・ルターが言うのは、隣人との平和が可能(かのう)であるのは、自分の意志をその隣人の意志に譲るときです。ルターによりますと、皆は自分を正しくしたいと思います。皆は自分の利益を求め、守り、要求します。自分の権利(けんり)を守る為に皆は戦います。ですから平和を得る為に、自分の権利(けんり)を放棄(ほうき)しなければなりません。ルターは山上の説教のイエス様の言葉を覚えさせます。マタイ5章40節に、上着を取ろうと思う敵にあげなさい、いや、下着までにもあげなさいと言われます。これに加えて、平和の為に右の頬(ほほ)を向ける事でしょう。即ち、誰かが自分を打ったら、仕返しをする事が私の権利でしょうが、平和の為にその権利を放棄します。それで次の霊の実に移ります。

4.寛容(かんよう)。これは忍耐(にんたい)、偲ぶ(しの)事、堪忍(かんにん)、寛大(かんだい)、我慢(がまん)などです。諦めてギブ・アップしない忍耐です。迫害、侮辱、被害を偲んで、自分に害を与える人の心がよくなるまで待ち望みます。希望があるからです。

5.親切。我々クリスチャンは、親切でやさしくて良い人です。厳(きび)しくて、不きげんで暗い人ではありません。人情(にんじょう)がある者、愛想(あいそ)の良い者、人好(ひとず)きのいい者、礼儀正しい人です。他の人の間違いを見のがして、その間違いに出来るだけ良い解釈をつけます。

6.善意。私達は慈悲(じひ)深(ぶか)いです。何故ならば、私達がキリストによって自由になったので、自由に他の人を助けて、気前善く良い事が出来るからです。

7.誠実。忠実です。信頼できる事です。正直(しょうじき)です。神様が私達に御自分の約束を守るので、私達も神様に対する約束を守ります。又、隣人に対する約束と契約を守ります。この誠実さは大切です。愛、友情、和、平和の為に無くてならないものです。希望と信頼に基づいています。

8.柔和(にゅうわ)。すぐ腹を立てないで、すぐし返ししません。

9.節制(せっせい)。自制(じせい)です。性的なものに対しても、飲んだり食べたりすることにも節制します。それで性欲(せいよく)と欲張(よくば)りをコントロールします。自分の人生の中にこの霊の実を持つ為に聖霊の力が必要です。ですから自制を始め、すべての霊の実の為に祈ります。

ある時の聖書研究会の中で、皆さんがどちらの霊の実の為に祈っているか尋ねました。どの実の成長をさせる為に、肥料や訓練が必要でしょうか。その時の2つのトップは、忍耐と自制でした。今日あなたはどちらの為に祈るでしょうか。

私達の人生は絶えまない戦いの連続です。肉の業と霊の実の戦いです。十戒を守ろうと思っても、完全に自分の振る舞いを支配する事が出来ないでしょう。いや、自分の人生の中に福音の自由が必要です。それで、聖パウロは言います、「5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情(よくじょう)や欲望(よくぼう)もろとも十字架につけてしまったのです。5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進(ぜんしん)しましょう。」即ち、聖霊によって生きるので、聖霊と共に歩みましょう。もし神様の業を見たら、神様のなさった事やこれからも約束した事の中で、すべての霊の実を見る事が出来ます。イエス様の救いの働きの中で、この事を見る事が出来ます、即ち:  愛であり、喜び、平和、寛容(かんよう)、親切(しんせつ)、善意(ぜんい)、誠実(せいじつ)、柔和(にゅうわ)、節制(せっせい)です。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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