弟子になる為の準備

顕現節第4主日
2014年1月26日


福 音 書   マタイ 4:18〜25
4:12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
4:17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 4:20 二人はすぐに網を捨てて従った。
4:21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。 4:22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。 4:23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。 4:24 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。 4:25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。

以前、今日の福音書の日課を読む時、私には違うイメージがありました。 考えたのは、イエス様がガリラヤ湖のほとりを歩いて、全然知らない人に呼びかけて、自分に「私について来なさい」と言われた事です。そして、彼等はイエス様を全然知らなくても、すべてを捨てて彼の後について行った事です。そして説教で、私達もすべてを捨てて、疑わないで、何も考えないで、イエス様について行くように説教で言うでしょう。

しかし、最近違うイメージを描きます。特に先週の福音書を読んだ後にです。ヨハネによる福音書1章で、イエス様が洗礼を受けた後に、バプテスマのヨハネは自分の弟子達に神様から受けた啓示について話しました。彼らにイエス様が神様の子であると教えました。ヨハネが言いました、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。ヨハネの弟子の一人は、シモンペテロの兄弟アンデレでした。次の日、アンデレがイエス様を見た時、イエス様の後ろに従いました。その日の夕方までイエス様と共にいました。たしかに、イエス様は福音について話して、アンデレがよく聞いたでしょう。その後に、アンデレは自分の兄弟シモンペテロを見つけて言いました、「私達はメシア・キリストに出会った」と。そしてアンデレがペテロをイエス様のことに連れて行きました。

それで今日の福音書の日課、マタイ4章はその後になりました。バプテスマのヨハネがヘロデに捕らえられた後です。イエス様は宣教の働きを始めて、言われました、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と。 ですから、私が言いようと思うのは、その漁師達はもう既にイエス様を知ってた事です。多分イエス様の説教を聞いたのでしょう。イエス様がメシア・救い主であるともう既に信じたでしょう。アンデレが以前バプテスマのヨハネの弟子だったので、イエス様の弟子になりたいと思ったでしょう。ですから、漁師達がイエス様について行く事は、突然の決心ではないと思います。もう心の準備をしておいて、イエス様に呼ばれる日を待ったのでしょう。もう既に自分の家族や漁師達同士で話したでしょう。もうついて行く準備をしたのだろうと私は思います。

それで、今日の説教の目的とは、皆さんがイエス様に着いて行く為に準備をする事です。

どうやって準備するでしょうか。先ず、イエス様が自分個人の救い主であると信じる事です。実は、それだけが必要です。信仰とは聖霊があなたに、イエス・キリストの血があなたの罪を赦して、イエス様があなたに永遠の命の約束をした事を掲示された事を知る事です。子供の場合、信仰とは、イエス様が良い羊飼いであり、あなたがイエス様の小羊であると知る事です。それで、私達は私達の羊飼いに従います。

更に準備す為に、私達は聖書を学びます。それが必要なのは、イエス様に従う弟子は、イエス様のような事をするからです。聖書の中に、イエス様の愛の業とイエス様の愛の言葉を読みます。それで、どのようにクリスチャンになるか学びます。もし私達はイエス様に従うならば、クリスチャンとしてキリストのように歩いたり、話したり、考えたりする事が必要です。罪人には、そのような生き方が自然では有りません。聖霊は私達の心や人生の中に入って

、ご自分の贈り物を下さいます。ガラテヤの信徒への手紙5:22はキリスト信者の人生を特徴を教えます。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」これはモーセの律法ではありません。私達が十戒を守るからクリスチャンになるわけではありません。かえって、クリスチャンであるので十戒を守ります。実は、キリスト信者達が、そんなに十戒によって導かれていないと思います。導くよりも、私達がイエス様の道から迷う時に、私達をけっとばしたり、道に戻るように私達を押したりするでしょう。私達はイエス様の愛によって導かれています。私達はイエス様の振舞いを見て、彼の言葉を聞くので、イエス様の足跡に従います。

キリストの弟子になる為に、準備して練習しますと、私達がもう既にキリストに従っていると分かってきます。そして、その道がどこに行くが分かってきます。その四人の弟子達の場合には、それはイエス様と共に働いて、福音を述べ伝えて病気の人を癒します。彼等はエルサレムまでイエス様について行きました。そこでイエス様が十字架につけられました。イエス様が逮捕された時、十字架上にイエス様を見る時、その弟子の道がもう終わったと思ったでしょう。3日間で、絶望した人がいました。

私達がイエス様に従う時、いらいらする時があるでしょう。悪魔は、誘惑をその道の真ん中に置きます。人生の嵐と霧があるので、先を見る事が出来ません。迷いやすいです。体の弱さや精神のストレスがあるので、教会に通う事が難しくなる時が有ります。祈りの答えが見えない時、クリスチャンの道が正しい人生の行き方であるかどうか疑います。 3日目にイエス様が復活した時、弟子達に新しい希望が与えられました。  イエス様が、地獄への回り道を通ったので私達はそこに行かなくても良いです。それで、現代のイエス様の弟子達には希望と勇気と力があります。イエス様が復活したと分かるからです。そして、イエス様が私達を正しい道に導いて下さると分かります。詩篇23篇がそれを教えます。「わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行く、憩いの水のほとりに伴い」

ペテロとほかの漁師達が呼ばれた時、イエス様に従うようにもう準備が出来たのです。あなたはどうでしょうか。準備が出来ているでしょうか。又、もう既に、今も、あなたの所に、自分の人生でイエス・キリストに従っているでしょうか。私達はほとんどもう既にキリストの弟子達でると思います。まだ魚を取って網を打っているかもしれませんが、その事でキリストの働きをする所でしょう。仕事、勉強、子守、教え、料理、テレビを見る事は、すべてを捨てて出かけてイエス様について行く事より難しいかも知れません。しかし、修道院などに行くように呼ばれていません。聖霊が私達を呼びましたので、私達がイエス様について行く事が出来ます。私達がどこにいましても、イエス様が私達の所に来られます。もしかしたら、キリストが私達の後ろに来るでしょうか。もしかしたらキリストが私達のそばに歩くでしょうか。このようにして私達の人生が全部クリスチャンになります。私達がキリストと共にいるからです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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