生きているものの神
(復活)
2007年11月11日
聖霊降臨後弟二四主日
ルカ20章27−40節
まず、聖書の時代の背景について考えます。イエス様の時代には、政治的宗教的グル−プサドカイ派と言う人々がいました。彼らは聖書の最初五つの本(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を聖なる書物として受け入れました。それでモーセの律法を強調し,預言書(イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書など)を拒否しました。ですから預言書にはっきりと示されているある訓えを受け入れませんでした。
たとえば天使、霊、死者の復活などです。パリサイ派の人々はメシアの来臨を信じて待ち望みましたが、サドカイ人はそれをしんじませんでした。サドカイ人はメシアが来られるように祈りませんでした。彼らにとってメシアの来臨は彼らの国を支配するのに妨害になると思いました。ですから、イエス様や他の人が彼らにとっては邪魔でした。イエス様の評判を壊してしまおうと思いました。それをする為に、死んだ人の復活について質問し、イエス様をわなにかけようと思いました。イエス様に挑戦するためと、復活という論点をやじるために、彼らはばかばかしいことを質問しました。それは申命記25章5節の「レビラート婚」という聖書の律法にもとづいています。
「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子どもを残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。 亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻とし、兄弟の義務を果し、彼女の生んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」このよい例はルツ記です。ルツの夫が亡くなりました。ベツレヘムに帰りまして、親戚の人であるボアズと結婚しました。それで、サドカイ人の質問がきます。もし七人の兄弟が亡くなった兄の未亡人と結婚すれば、復活の時、彼女は誰の妻でしょうか、なぜならこの七人は彼女と結婚していたからとイエス様に聞きました。イエス様はまず天国での家族構成はこの地上のものとは異なると言われました。そして天国では弟は兄の妻と結婚しなくてもよい。なぜなら天国には死がないから、それで家族が死に絶えることがないと言われました。そしてイエス様は主たる質問に答えられました。聖書の最初の五つのモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は死んだあとの人生について明確な教えがされていないみたいでした。サドカイ派はモーセ五書のみを受け入れていましたから、イエス様は彼らが復活をうけいれられるように、モーセ五書の言葉に基づいて復活があることを証明しなければなりませんでした。それでイエス様は神様がシナイ山でモーセに燃える芝から語られた有名な言葉を引用しました。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」
神様がこれらの言葉を語られたとき、過去形ではなく現在形を使われました。もし、父アブラハム、ヤコブ、イサクが死んだなら、神様は、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神だったと言うべきでした。 しかし神様が現在、かれらの神様であれば、彼らも生きてなければなりません。 彼らが400年前に葬られたのは事実です。しかし彼らはまだ生きています。それからイエス様は「神は死んだ者の神ではなく、生きているものの神なのだ。すべての者は神によって生きているからだ。」と結論づけました。このようにして、イエス様はサドカイ人を論駁(ろんばく)しました。もし復活がなければ、宗教は今現在私たちをなにかから助けてくれるものにすぎません。それはマジック・魔法のように、または薬、またはカール・マルクスが言ったように麻薬のように、宗教はただもう一つのもの、私たちの人生や他の人々を支配する方法に過ぎなくなります。
もし復活がなければ、キリスト教はこの世になにものをも与えないと私は思います。 もし永遠の命がなければ、罪の赦しの必要はありません。イエス様が十字架の上で死ぬ必要はありません。 私たちの隣人を愛する必要もありません。ただ彼らを利用して何か善いものを引き出す以外にはです。キリスト教にとって復活はとても大切です。私たちの今の人生が悪いとき、私たちに希望を与えてくれます。私たちの愛する人々ともう一度合う希望を与えてくれます。私たちが礼拝し敬愛するイエス様と合う希望をあたえてくれます。
しかし私たちはもうすでに今も後も永遠にキリストと生きますので、今の人生が重要になってきます。 私たちは人生をあきらめませんし、天国に行くまで物事が善くなるのをまちません。 永遠の命はもう始まりました。神様は今私たちの神様です。イエス様が言われたように、「神は死んだ者の神ではなく生きているものの神なのだ。すべての人は神によって生きているからである。」 神様は私たちの事に感心をもっておられます。神様は御自分の一人子をこの地上に送り私たちのために死なせるほど私たちを愛しておられます。 私たちはすべての生き物を守りたいと思います。ですからキリスト教は命を非常に大切なものとして位置づけます。 植物や動物や特に弱い人々、若い人、年寄り、まだ生まれていない幼児、弱い人、病気の人、そして圧迫されている人などです。神様は生きている者の神様なので、今日私たちは喜びます。
私たちは沢山の素晴らしい、いま与えられている恵みに神様に感謝します。 神様は私たちの生きている神様であるので、喜んで感謝します。アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会
翻訳:ニアフッド昌子姉