生きているものの神 (復活)

2013年11月10日

福音書 ルカ20章27−40節
20:27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。 20:28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 20:29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。 20:30 次男、 20:31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。 20:32 最後にその女も死にました。 20:33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」

20:34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、 20:35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。 20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。 20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。 20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

20:39 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。 20:40 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。

まず、聖書の時代の背景について考えます。イエス様の時代には、サドカイ派と言う人々がいました。ユダヤの国の政治的なグループで、それと同時にユダヤ教の宗教的なグル−プでした。彼らは聖書の最初五つの本(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を聖なる書物として受け入れました。それでモーセの律法を強調し,預言書(イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書など)を拒否しました。ですから預言書にはっきりと示されているある訓えを受け入れませんでした。 たとえば天使、霊、死者の復活などです。パリサイ派の人々はメシアの来臨を信じて待ち望みましたが、サドカイ人はそれを信じませんでした。サドカイ人はメシアが来られるように祈りませんでした。彼らにとってメシアの来臨は彼らの国を支配することの、妨げになると思いました。ですから、イエス様や他の人が彼らにとっては邪魔でした。イエス様の評判を壊してしまおうと思いました。それをする為に、死んだ人の復活について質問し、イエス様をわなにかけようと思いました。

イエス様に挑戦する為、又復活という論点を馬鹿にする為に、彼らはばかばかしい事を質問しました。それは申命記25章5節の「レビラート婚」という聖書の律法にもとづいています。 「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。 亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻とし、兄弟の義務を果し、彼女の生んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」この良い例はルツ記です。    ルツの夫が亡くなりました。ベツレヘムに帰りまして、親戚の人であるボアズと結婚しました。それでサドカイ人の質問が来ます。もし七人の兄弟が亡くなった兄の未亡人と結婚すれば、復活の時 彼女は誰の妻でしょうか、なぜならこの七人は彼女と結婚していたからとイエス様に聞きました。

イエス様はまず天国での家族構成はこの地上のものと異なると言われました。そして天国では弟は兄の妻と結婚しなくてもよい。なぜなら天国には死がないから、それで家族が死に絶えることがないと言われました。そしてイエス様は元の質問に答えられました。聖書の最初の五つのモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は死んだあとの人生について明確な教えがされていないみたいでした。サドカイ派はモーセ五書のみを受け入れていましたから、イエス様は彼らが復活を受け入れられるように、モーセ五書の言葉に基づいて復活があることを証明しなければなりませんでした。それでイエス様は神様がシナイ山でモーセに燃える芝から語られた有名な言葉を引用しました。「私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」 神様がこれらの言葉を語られた時、過去形ではなく現在形を使われました。もし、父アブラハム、ヤコブ、イサクが死んだなら、神様は、「私はアブラハム、イサク、ヤコブの神だった」と言うべきでした。しかし神様が現在、彼らの神様であれば、彼らも生きてなければなりません。彼らがもう400年前に葬られたのは事実です。しかし彼らはまだ生きています。それからイエス様は「神は死んだ者の神ではなく、生きているものの神なのだ。すべての者は神によって生きているからだ」と結論づけました。このようにして、イエス様はサドカイ人を論駁しました。

もし復活がなければ、宗教はただ今現在私たちを助けてくれるものにすぎません。それは信仰の癒し[信仰、健康、銀行]、又はマジック・魔法のように、または薬、またはカール・マルクスが言ったように麻薬のようになります。宗教は、私たちの人生や他の人々を支配するただもう一つの方法に過ぎないです。サドカイ派人だけではなくて、歴史を学びますと、国民をコントロール為に、宗教が利用されています。現在も、ある独支配者やある政治家はそのように宗教を使います。

もし復活がなければ、キリスト教はこの世になにものをも与えないと私は思います。もし永遠の命がなければ、罪の赦しの必要はありません。イエス様が十字架の上で死ぬ必要はありません。 私たちの隣人を愛する必要もありません。ただ彼らを利用して何か善いものを引き出す以外に隣人を愛するのです。

キリスト教にとって復活はとても大切です。私たちの今の人生が悪い時、私達に希望を与えてくれます。私達の愛する死んだ人々ともう一度会う希望と慰めを与えてくれます。私達が礼拝し敬愛するイエス様と会う希望と楽しみを与えてくれます。 しかし私たちはもうすでに今も後も永遠にキリストと共に生きますので、今の人生が重要になってきます。命が大切なものですので、私達は人生をあきらめませんし、天国に行きますとすべてが幸せになりますが、その時まで待ちません。永遠の命はもう始まりました。神様は今私たちの神様です。イエス様が言われたように、「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ。すべての人は神によって生きているからである。」 神様は私達の事に感心をもっておられます。神様は御自分の一人子をこの地上に送り、私達のために死なせるほど私達を愛しておられます。 ですからキリスト教は命を非常に大切なものであると教えます。私達はすべての生き物を守りたいと思います。植物や動物や特に弱い人々、若い人、年寄り、まだ生まれていない幼児、弱い人、病気の人、そして圧迫されている人などです。

神様は生きている者の神様であるので、今日私達は喜びます。 私達は沢山の素晴らしい、いま与えられている恵みに神様に感謝します。 神様は私たちの生きている神様であるので、喜んで感謝します。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会
部分の翻訳:ニアフッド昌子姉


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