2010年4月18日
復活祭は2週間前でした。その時、イエス・キリストにある新しい命をお祝いしました。イエス様が死んで甦ったので、私達も死んで復活します。今もう既にキリストによって生きています。復活祭の2週間後ですが、私達はまだそのイースターの福音の希望の内で生きているでしょうか。それとも古い生き方に戻ってしまったでしょうか。受難節の時、多くの人々は特別な断食のようなものをしようと思います。食べ物や活動を変えたいと思います。そして、イエス様による新しい命があると聞いて、多くの人々は再び自分の人生を変えたい、チェンジーしたいと思います。その復活の力によってそれが出来ると思うからです。新しい事をするか悪いくせや罪を止める事です。新しい年の決意のようです。しかし、すぐその決意を捨てる3日坊主(ボウズ)のようです。その新しい決意を続けることが出来ないのでガッカリします。毎週の日曜日、礼拝の前に、罪の告白と赦しがあります。自分が罪人であると告白して、今度清い生活を送るようにしたいと思いますが、次の日曜日の朝、同じ罪や誤りと欠点を告白します。どうして私達クリスチャンはあきらめないでしょうか。どの希望があって続けられるでしょうか。クリスチャン達は、自分が弱い時に、どこに力を見つけるでしょうか。どのように罪人が生き残る事が出来るでしょうか。
イエス様の弟子ペテロが退屈し、飽きてしまったみたいでした。「僕は釣りに行く」と言いました。福音伝道び使徒の仕事を止めたみたいです。古い仕事、漁師に戻るみたいです。以前イエス様はいつも弟子達と共にいました。一緒に旅をして、食べて、祈って、大勢の群衆に福音を述べ伝えました。しかし、復活されたイエス様は大勢の群衆の前に現れませんでした。以前のように、いつも弟子達と共にいませんでした。そうしましたら、弟子達の為に危ないかも知れません。何故ならば、イスラエルの指導者達はきっとイエス様を再び逮捕して再び十字架につけようと思うでしょう。弟子達の人生と毎日の生活は変わりました。イエス様は彼らに福音を述べ伝える伝道の仕事を与えましたが、彼らはそれをする力がないように感じました。毎日何もしませんでした。ペテロのような人は、それがつまらないと思ったでしょう。お金が少なくなったでしょうか。ペテロはその大きい町エルサレムが嫌いで、故郷に帰りたいと思ったかもしれません。「僕は釣りに行く」と言いました。数人の弟子も、「一緒に行く」と言いました。
ガリラヤ湖に行きました。プロの漁師なので夜、釣りをします。一晩中、朝まで働きましたが一匹も釣れませんでした。ペテロは漁師だったのですが、新約聖書の中では、イエス様の助けがなければペテロは魚を一匹も釣りません。奇跡によってペテロ達が数回も大量の魚をとる事があったのですが、そうでなければ、ぺテロは何も釣りません。
イエス様が最初にペテロを弟子に召された時、「私はあなたを人間を取る漁師にする」と言われました。ですから、ペテロは魚をとってはいけないのでしょう。人間をとるべきです。そして勿論、魚の釣りと同じように、聖霊の助けがなければ何も出来ません。人間をとる奇跡がありました。ペンテコステの日に、エルサレムで3千人も洗礼を受けました。
そして今日、イエス様はペテロにもう一つの仕事を与えます。人間を取る漁師に、羊飼いの働きも与えました。イエス様の羊を飼いなさいと言われました。ペテロはその働きをして、イエス様の教会を導いて養います。
この福音書の日課の数日後、イエス様は天に昇ります。そして、ペンテコステに聖霊を送ります。それでペテロには新しい仕事があります。いまはその働きをする為の力と導きがあります。ペテロは忠実にイエス様の為に働きます:使徒で、神の国の大使で、人間を取る漁師で、羊飼いです。
ペテロがその働きをする為の動機は、私達クリスチャンにもあります。洗礼を受ける時、イエス様のミッションをも受けます。信仰によって私達には聖霊が与えられています。これが私達の希望です。私達の罪が赦されています。赦されましたし、これからも再び赦されます。イエス様がペテロを赦されたので、私達も赦される確信があります。イエス様はペテロに御自分を愛するかどうか3回も聞きました。彼は3回も「愛します」と答えました。3回もイエス様はペテロに「私の羊を飼いなさい」と言われました。これは完全な赦し、完全な信頼です。ですから私達クリスチャンもあきらめません。私達はイエス様の赦しと愛が分かりますので、続ける希望があります。イエス様の死と復活の中に、自分の人生の為のイエス様の力を見つけます。このようにして、私達罪人が生き続けます。
人生の網が空っぽのようにみえる時、イエス様は私達に呼びかけます。疲れてガッカリしている時、イエス様は御自分の愛をしるす奇跡を与えます。聖餐式の中で御自分の体と血によって私達を養います。私達をほかのクリスチャン達の群れの中に置きます。これはクリスチャン達の人生です:即ち、毎日をイースターのように生きるのです。毎日イースターであるからです!
アーメン。
マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会