"「良い雇い主の例え話」"

2011年9月18日

マタイ10:1−16
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」 

イエス様の時代の労働時間は朝6時から夕方6時まで、12時間の長い一日でした。仕事が欲しいと思った人々は、自分の道具を持って朝早く市場の広場に行って、雇ってくれる人を待ちました。大工の仕事でも良いし、畑の仕事でも良いでした。現在でも、ある所では、同じようなシーンを見る事が出来ます。例えば、大阪の港の近くのアイリン地区はそうです。一日の工場や建築の労働者が欲しい人はそこに行って、その日だけの為の人々を見つけて雇う事が出来ます。今日の福音書の例え話しには、この例を見る事が出来ます。「ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇う為に、夜明けに出かけて行った。主人は賃金一日つき1デナリオンの約束で労働者をぶどう園に送った」のです。多分、収穫の時期なので、主人はぶどうが一番おいしい時期に取って、悪い天気が来る前に収穫を終えたいと思ったでしょう。出来るだけ多くの働き人が欲しいと思ったでしょう。それで4回も広場に行って労働者を雇いました。9時、12時、3時、と仕事が終わる一時間前の5時にも行きました。朝、最初に雇った人に1デナリオンを払うように約束しました。他の人に、「ふさわしい賃金を払ってやろう」と言いました。その時代、普通の労働者の賃金は、1デナリオンでした。一日の一部だけ働いた人に、1デナリオンの一部だけ払ったら「ふさわしい賃金」になるでしょうが、その主人は非常に気前の良い人でした。もしかしたら、少ない働きでもありがたいと思ったでしょう。又、もしかしたら、その働く人の家族を憐れんで、親切にしたいと思ったかもしりません。と言うのは、1デナリオンがなければ、人は自分の家族や子供達の為にその一日の食べ物を買う事が出来なかったからでしょう。それで、皆さんにその決まった賃金の1デナリオンを払いました。朝6時からまる一日、暑い中を辛抱して働いた人々は、一時間しか働かなくなくても一デナリオンをもらった人を見たので、もしかしたら、自分達が12デナリオンをいただくだろうと思って期待しました。それで、皆と同じように一デナリオンだけをもらう時、主人に不平を言いました。しかし、主人は「私の気前の良さをねたむのか」と聞きました。例え話しの最後に、イエス様はこの言葉を言われました、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と。私は思いますが、その意味とは、最初の人と最後の人の平等を表すでしょう。両方は同じ、最初に決められた、ふさわしい賃金をもらいます。

今日の例え話は、神様の気前の良さについてです。最初の人も最後の人も同じ賃金をもらいました、何時間働いたかは関係なく、1デナリオンの賃金をもらいました。最初に雇われた人は、もう少しをもらう事を期待しました。最後に雇われた人は、一日の賃金全部をもらう事を期待しませんでした。その主人は一日分の賃金をあげるのは、必要だったと分かったからです。その労働者には家族がいます。その家族を食べさせたりする為に、1デナリオン全部かかるのです。

これは例え話しです。家の主人は神様です。労働者達は神様を信じる人々です。ぶどう園とは教会又全世界です。仕事の内容とは、神様を愛し、隣人も愛する事です。それは礼拝を始め、伝道、教会の中の働きも、毎日の働きもです。隣人を愛して、家族と友達などを愛して、奉仕する事です。実は私達のすべての働きで、神様の仕事をする事です。これは例え話であるので、労働者に賃金を払う事は、最後の裁判を意味するでしょう。その場合、デナリオンとは救いです。1デナリオンが十分です。何故ならば、永遠の命の2倍がありません。数学的に言うと、無限の2倍は無限です。長く働いた人は、もしかしたら天国でもっと素晴らしいマンションや、家をもらえると思ったでしょう。このマタイ20章の次の次の話で、ゼベダイの息子たちの母、即ちヨハネとヤコブの母は、イエス様のもとに来て、自分の子たちの為に、神の国の中で一番良い席をお願いしました。イエス様はその願いをしりぞけました。神の国は、人間の国の政府のように、力と地位を大事にしません。かえって偉い人は、多くの人に仕える人です。それで1デナリオンが十分です。完全な救いです。

エデンの園のパラダイスの中で、アダムは仕事を楽しみました。時々、私達も自分の仕事が大好きので、そこはパラダイスのようでしょう。しかし、例え話の最初の労働者達は、まる一日、暑い中を辛抱して働いたので不平を言いました。これは、罪に落ちたアダムへの呪いです。私達皆はこの呪いを感じた事があります。私達の仕事やする事がいつも楽しくありません。これは罪の為です。嫉妬(しっと)と不平と欲張りとねたみの為に、自分の事だけ考えて、自分の楽しみだけ考えます。私達の仕事は仕える事ではなくて、自分だけの為に何かを得る方法だけです。教会の中での働きも、自分の為に何かを得る為に考えます。即ち、自分の働きによって救いを得ると思う時です。よく働いたら、完全に信頼したら、一生懸命に信じましたら、神様が救いのデナリオンを下さると思う事です。しかし、例え話の労働者達は、自分達の働きによって賃金をもらいませんでした。家の主人の気前の良さによってお金をもらいました。それを何と呼ぶかと言いますと、「私達の業によらないで、神様の恵みによる救い」と言います。私達の救い7の為に働くのは、イエス・キリストだけです。まる一日、暑い中を辛抱して働いたのは、イエス・キリストです。苦しみを受けたのは彼です。私達皆に仕えるしもべになったのは、イエス様です。私達の罪を赦す為に十字架上で死んで下さったのは彼です。彼がもらったデナリオンとは、三日目の復活です。そのデナリオンには無限の価値があるので、私達すべてに救いと永遠の命を与えます。私達の働きの為にもらう賃金ではなくて、神様の気前の良さから来るただの無償の贈り物です。

私は、何年間神様のぶどう園の中で働いているかと思いました。しかし、何時間も、木の陰の下で昼寝をしてしまったと分かってきました。仕事中で遊んだ事は皆にあるでしょう。それで、私は完全に神様の気前の良さに頼らなければなりません。あなたは、いつイエス様の為に働き始めたでしょうか。人生の中で、いつイエス様はぶどう園の中で働くように呼びかけたでしょうか。いつその呼びかけに返事したでしょうか。今日、イエス様は再びあなたに呼びかけます。聖霊は福音によってあなたに呼びかけます。ある時、その働きは汗と涙ばかりです。ある時、その働きは喜びと愛です。しかし、いつも奉仕です。神様の為の奉仕とほかの人の為の奉仕です。自分の救いを払う為に働かないで、もう既に永遠の命が与えられているからです。それで、自由とパラダイスの希望があります。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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