良い羊飼い

2008年4月13日
ヨハネ10:1ー16

私達がほとんど田舎で育った者ではないので、イエス様の時代のパレスチナの羊を飼う方法について話しましょう。季節によって違いますが、日中、牧草を食べさせる為に牧場や野原に連れて行きますが、夕方になりますと、町に近い所に連れて帰ります。そして、フェンスや壁や塀のある囲いに入れます。その中で羊は安全です。外に迷い出ていかないし、又、野生の動物や泥棒からも守られます。そして、一つの大きい囲いの中に、いくつかの羊の群れがいます。朝になりますと、各羊飼いがその羊の囲いに来て、自分の羊が出て来るように声をかけます。彼の羊は彼の声を知りますので、自分の羊飼いだけについて行きます。違う羊飼いの後に従いません。違う羊飼いや知らない人からは逃げだします。何故ならば、その声が自分の羊飼いの声と違うからです。羊は自分の羊飼いの声を知ります。羊の囲いの門には、門番がいます。毎朝、正しい羊飼いが囲いに入いる事を許します。しかし、泥棒などは、壁を乗り越えて入らなければなりません。

福音書:ヨハネ10:1ー16.
10:1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。10:2 門から入る者が羊飼いである。10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」10:6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。

10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。

10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

イエス様は例え話しを話しています。先ず、弟子達やエルサレムの人々の為に話しましたが、私達の為にも話します。例え話しを説明する為に、イエス様は先ずこのように言われました、「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。」(ヨハネ10:7)。この門を通って、安全な所である羊の囲いの中に入り、又、その門を通って、外に行き牧草を見付けます。イエス様はその羊を守って養います。言われました、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(10)。泥棒でしたら、ほふる為に、即ち、まず羊を肉屋さんの所に連れて行き、お金の為にその羊を殺します。しかし、羊は泥棒の声を無視します。泥棒の声を知らないから、彼の後に付いて行きません。イエス様が意味するのは、羊のようである弟子達や信者達は、イエス様の声が分かるので、安全です。

イエス様の羊を奪って盗もうと思う声がこの世の中には多いです。変な宗教的なカルトの団体は、キリスト信者が取りやすい餌食ejikiと思います。そのリーダーは、神様のように自分の声で私達を呼ぼうと思いますが、そのねらいは、信者達のお金や信者達の心や魂を支配することです。そして、聖書を使って聖句を引用しますと、イエス様の声そっくりになるかも知りません。エホバの証人、モルモン、統一教会などに気を付けなければなりません。他の声も私達をさそいます。無神論者は、科学の知識や論理的に聞こえる言葉を使って私達の心を奪おうと思います。世俗的な罪人は、私達もその下品な事をするように、私達の意見を変える為に、聖書の御言葉を曲げたり、現代の文化は今の時代の為に神様の本当の意思であると言います。又、私達の罪深い心は、私達の良心より大きく叫びます。「大丈夫ですよ、罪ではないよ」と。しかし、この声に従ったら、緑の牧場に伏させる事にならないで、乾いている荒れ野に連れて行かれます。そして、その荒れ野には、むなしい約束、霊的な失敗、霊的に見捨てられる事しかありません。安全な、憩いの水のほとりにともなわれないで、不安で危険な状態に導かれます。

周りには、数え切れない声がある時、どうやってイエス様の声を見分ける事が出来るでしょうか。イエス様が話す言葉は、:「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」(14ー15)。「わたしは羊のために命を捨てる」です。この言葉はイエス様を救い主であると表します。弟子のトマスは、どのようにして、イエス様が良い羊飼いであると分かったでしょうか。それは、釘後を見て、イエス様がご自分の命をトマスの為に捨てたと理解した時です。その時トマスは「わが主よ、わが神よ」と告白して、羊のようにイエス様に従いたいと思いました。イエス様が良い羊飼いであると分かるのは、イエス様が私達の為にご自分の命を捨てたからでした。狼から逃げないで、私達を悪魔や地獄や死に置き去りにしませんでした。イエス様は雇い人のようではありません。代えって、私達を愛し、私達の面倒を見て下さるのは、私達が彼の羊だからです。イエス様にとって、私達は価値の高い者です。彼は私達の為に責任を取ります。彼は良い羊飼いで、私達は彼の羊である事に誇りを持ちます。

この例え話しの中で、あと2つぐらいの細かいところが私に勇気を与えます。イエス様は言われました。「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」(3ー4)。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。。。。羊は、ついて行く。」あなたの名前は他の人との関係を表します。もしあなたの名前が鈴木太郎や鈴木花子でしたら、あなたは鈴木家の人間であり、その鈴木の親戚に縁があると意味します。女の人が結婚して名字myoujiを変えますと、新しい家族との新しい関係があると表します。私達が洗礼を受ける時、新しい名前をもらいます。洗礼式の言葉を言います。「鈴木太郎・花子よ。私は、あなたに洗礼を施します。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。」その人の新しい名前は、「三位一体鈴木太郎、クリスチャン鈴木花子」のようになります。イエス様は羊の囲いの門に来られて呼びます。「おおい、クリスチャン太郎、おおい、クリスチャン花子、おおい、クリスチャンマイケル、クリスチャンの皆さん、今日、緑の牧場に行きましょう。世の中に出て行きましょう。私はあなたがたと共にいるからです」。イエス様は私達の名前を知って、私達が彼にとってそんなに大切で、特別であるからです。「羊飼いは先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」とイエス様は言われました。イエス様は、あらっぽいカウボイではありません。カウボイは、牛の後ろにいて、無理やりに牛を道に進むようにします。しかし、イエス様は先頭に立って、私達がついて来ると期待します。ちょっと危ないでしょう。羊はさまよいます。クリスチャンが誘惑されています。道を失って、危険な問題になりますと、イエス様が来て私達を探し出さなければなりません。ーーしかし、それは別の日の例え話しです。ーーイエス様が私達を導いて下さって、私達は彼に従います。イエス様は私達を愛して、私達を信頼するからです。私達に自由を下さいます。そして、その自由の中で、私達は私達の良い羊飼いの声を聞いて、彼に従って活きます。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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