2011年11月6日、全聖徒の主日
イエス様は言われました、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」マタイ5:3。今日は全聖徒の主日です。天国について話しましょう。
では天国は何でしょうか。念の為に聖書辞典を調べました。面白いと思ったのは、ヘブライ語、ギリシャ語、英語、日本語にも、この言葉には2つの意味があります。先ず、地面に対する空です。そこには、雲も月も太陽も惑星も星もあります。創世記1:1「初めに、神は天地を創造された。」2つ目は、天国は神様の住まいです。イザヤ66:1「主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。」といわれました。しかし神様は空の上に住んでいる訳ではありません。それは神様の住まいはこの地球とはまったく違う事です。英語と日本語で、この言葉にもう一つの使い方があります。即ち、天国に行く事は死ぬ事です。しかし、クリスチャンにとって、天国に行く事は神様と共にある永遠の命と意味します。今日は全聖徒の主日で、もう既に死んで、天国で主と共にいる聖徒達を覚えます。
聖書の中には、天国を綺麗に描く箇所が沢山あります。そこは楽園のパラダイスであり、結婚の披露宴であり、みどりの牧場です。天国のマンション、金の道、真珠の門です。しかし、今日、天国の建築や家具について話しません。天国とは、神様がおられる所です。神様がいましたら、どこであっても、それは天国です。私達が神様と共にいる時、私達は天国にいます。天国が楽園になるのは、私達が神様と共にいるからです。それで天国にいる事とは、神様と共にいる事です。神様との永遠の交わりです。もう痛みや死や悲しみや涙や争いがありません。又、私達の体が永遠の命の栄光に変えられます。
私は天国に行きたいと思います!サインアップしましょう。私の額や私の胸に十字架のしるしを書いて下さい。それは、キリストの死と復活に加えて洗礼のしるしです。マルコ16:16「信じて洗礼を受ける者は救われる。」
それから今日の福音書の日課を見ました。この言葉によりますと、誰が天国に入るでしょうか。誰が神様を見る事が出来るでしょうか。心の貧しい人々、心の清い人々、義のために迫害される人々です。それで、この言葉が標準でしたら、私自身が天国に行く資格があるでしょうか。自分の心はどのぐらい清いでしょうか。自分が平和を作る事か問題を起こす事か、どちらの方が多いでしょうか。自分の人生の中で、どれだけ正義のために、正しいことのために生きるため、そのせいで迫害にあったり、いじめられたりしたことが有るでしょうか。
又、私の愛する人、もう既に主の所に召された人の場合はどうでしょうか。彼等は大丈夫でしょうか。彼等はイエス様を信じた良い人でしたが、いつも清く、やさしく、柔和な人ではありませんでした。この世に100%心の清い人がいるでしょうか。実は、います。それはイエス様です。彼の十字架上の犠牲によって、私達のすべてのけがれや争いや不信仰が赦されています。
復活によって、イエス様と同じ新しい命を受けます。ですから、私達は神様を見る事が出来ます。ですから、私達は天の国を受けます。天国で、もう既に主なる神様と出会った人々と共に加えられます。
イエス様はいわれました、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」マタイ5:3。私達の心が貧しくても、神様の愛と憐れみによって恵まれています。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会