2015年3月1日 受難節第二主日
先週、受難節の説教のシーリズとして、マルコによる福音書の受難週の六日間を始めました。それは、枝の日曜日から聖金曜日までです。今日、週の2日つめの日、月曜日を見ましょう。
イエス様の今日の行動は変です。普通に思うのは、イエス様がやさしく親切で、おだやかな、人を手伝って癒すお方である事です。しかし、今日は、イエス様がいちじくの木を呪ったり、暴力的に神殿を清めます。その無花果の木を呪う事を理解する一番良いのは、それが預言的なしるし、例え話のように考える方法です。もしいちじくの木の葉が茂(しげ)るならば、実があるはずです。いちじくの季節ではなかったので、葉もないはずです。それで、その木は季節外れて、正しくない木で、うその葉をつけている事のようです。
神殿も同じです。葉っぱがいっぱいのように、活動で忙しかったです。多くの人は過ぎ越しの祭りに、必要な物を売ったり買ったりしていました。しかし、このような活動は、神殿の境内にふさわしくありませんでした。神殿のふさわしい実とは、「すべての国の人の祈りの家」になる事です。それでイエス様は商売する人々を追い出しました。いちじくの木と違って、イエス様はその神殿を呪いませんでした。何故ならば、祈りと生け贄の為に、神殿が必要だったからです。その上40年後、ローマの兵隊はその神殿を完全に破壊します。イエス様の十字架上での完全な犠牲の後に、神殿が必要ありませんでした。
それで、その日、いちじくの木の為の呪いと神殿の為の、清めの祝福がありました。イエス・キリストは裁き主であり救い主であるのです。
イエス様はその神殿の状態を見て行動しました。イエス様は私達の教会の状態を見ます。イエス様はどんな行動をするでしょうか。私達を呪うかそれとも祝福するでしょうか。私達を裁くか、それともあわれむでしょうか。すべての教会のように、礼拝と祈りのほかは、フリーマーケットや持ちよりやパーティがあります。そのものが悪くないのですが、祈りと賛美と福音の伝道の邪魔をしなければです。それで、私は祈ります。イエス様が私達の教会を清めてくださるように、本当に「すべての国の人の祈りの家」になるように。
イエス様は私達の毎日の生活を見ます。私達が多くの事で忙しいので、沢山のいろいろの葉っぱがあります。しかし、実があるでしょうか。愛と祈りがありますか。親切がありますか。信仰と信頼がありますか。イエス様が私達を呪うでしょうか、それとも清めるでしょうか。清める事は祝福です。
私達がイエス様の死と復活によって清められています。洗礼によって綺麗に洗いました。罪の赦しによって祝福されました。聖パウロは、私達の体が聖霊の神殿であると書きました。聖霊は私達の心の中に住んでいます。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会