三位一体の名前

2013年1月13日
主の洗礼日
顕現節第2主日


父と子と聖霊の御名により。アーメン。

礼拝の最初の言葉は三位一体の御名です、「父と子と聖霊の御名により。アーメン。」 どうしてその言葉を言うでしょうか。日本の神道の神社に行きましたら、入り口にはベルがあります。礼拝者は祈る前に、献金する前に、そのベルを鳴らします。その神社に住む神々を眠りから起こす為と言われています。しかし私達クリスチャンはそのような事をしなくてもいいです。 詩篇121:4がこのように言います。「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむ事なく、眠る事もない。」又は、礼拝の前に、神様の電話番号を探さなくてもいい、eメ-ルの住所をインプットしなくてもいいです。又は、ほかの神々がいないので、正しい神を礼拝する為に三位一体の御名を唱えなくてもいいです。

それで、神様を起こす為にではなくて、むしろ私達を眠りから起こす為です!礼拝の式者は、この言葉を言う事によって、私達が礼拝するお方はどの者か教えます。造り主、贖い主、清め主で、私達をお造りになり、私達を救って下さって、私達を聖なる者にして下さった神様です。それは私達の礼拝の時間のテーマです。これは私達の礼拝の力と権威{けんい}です。この言葉によって、私達が全能の神様の御前にいる、神様が私達と共にいると分かります。この一時間は聖なる時です。

この言葉に「アーメン」と返事して言いますと、信仰告白になります。

この言葉は、私達が洗礼を受けた時に話された言葉です。牧師は私達の額にも、私達の胸の上にも、聖なる十字架を切ります。それは私達の救いのしるしです。そして、洗礼をほどこして言います。「私は、あなたに洗礼を施します。父と、子と、聖霊の御名によって。アーメン。」ですから、私達の礼拝の一番先に言うこの言葉は、私達の洗礼を思い起こさせるはずです。そして、この言葉に「アーメン。」と言うごとに、私達は再び私達の洗礼の約束をちぎります。「アーメン。私は神の子供です。」私達は一回だけ洗礼を受けますが、洗礼の力は永遠です。私達の人生にいつもあります。人生の為に役に立ちます。マルチン・ルターの言葉をヒントとして、このように言いましょう。私達のクリスチャンの人生は、舟での旅のようです。スムーズの海があれば嵐もあります。人生の嵐の時、たまに私達は舟から水に落ちます。ぬれてしまいます。ぬれている時に、自分の洗礼を思い出して、舟の方に泳ぎ戻って、主は御手を伸ばして私達を舟に戻します。ペテロを助けたのと同じです。洗礼とは神様の約束です。御自分の愛と救いによって、御自分の手を伸ばして、私達を再び助ける事です。洗礼はただ私の信仰告白のしるしだけではありません。洗礼は神様の約束です。救いの約束です。マルコ16:16、「信じて洗礼を受ける者は救われます。」救いの確信です。

三位一体の御名が唱えられている時、ある人は自分の胸に十字架を切ります。信仰告白ですし、自分の洗礼を受けた時に、自分の心の上に書かれた十字架をおぼえます。悪をふせぐ為の魔術{まじゅつ}ではありません。しかし危ない時や、悪に直面する時に、神様の守りの為の祈りになります。言葉を話さない祈りになります。

説教の時、多くのルーテル教会の説教者は、第1テモテ1:2の聖パウロの言葉を言います、「父である神と私達の主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。アーメン。」私自身の説教の前に、いつから言って始めるようになったか分かりませんが、いつもこの言葉を言います、「父と子と聖霊の御名により。アーメン。」実は、この言葉を言う事は、ちょっと不安な時があります。自分の上に大きな責任を感じるからです。説明します。

「誰かの名前によって」何かをする時、私達は自分がそのたの人であるように、その人の代わりに何かをします。その人の為に何かを話したり、やったりする権威があります。その人がしたようになります。弁護士はこの仕事をする時があります。英語の表現ですが、警察は「法律の名によって」人を逮捕します。又、大使は自分の国の「総理大臣の名によって」話しますので、総理大臣がその場で話すと同じです。

それで説教を話す時、「三位一体の神様の名前によって」と言いましたら、大きい責任が私にあります。なぜならば、神様ご自身がその言葉を話すのと同じだからです。聖霊が説教しているようです。自分が忠実にそれを果たすように祈ります。又、私の言葉を通して、あなたがたが、神様の御言葉を聞く事が出来るように祈ります。御言葉があなたの心に話すように祈ります。その言葉は、厳しい時があれば慰めを与える時もあります。警告の場合があれば、平和を告げる時もあります。不安にさせる時があれば、興奮させる時もあります。悲しい時も楽しい時もあります。

神様は何を私達に話したいと思うでしょうか。「「父と子と聖霊の御名によって」私達の為にして下さったすべての事を話したいと思います。即ち、創造、贖い、きよめです。神様の完全な律法も完全な福音もです。神様のメッセージのフォーカスは、その神様のメッセージの中心とは、イエス・キリストの十字架です。それで、もし私は十字架を説教しましたら、自信を持って説教壇の後ろに立つ事が出来ます。

毎年、この日、教会でイエス様が洗礼を受ける、福音書の日課を読みます。それで今日、私達は自分達の洗礼をおぼえたらいいでしょう。洗礼を施すのは、「父と子と聖霊の御名により。アーメン。」でした。それで、私達は自分の人生をいつも「父と子と聖霊の御名によって」生きるのです。それで、神様の子供として生きる権威があります。神様の御言葉を語る権威があります。先ず祈る事です。そして、御言葉を話して、たの人に忠告をし、反論をし、勇気を与える言葉をも言います。私達の洗礼の時、私達が神様の子供であると神様は約束します。それで、神様はご自分の祝福、「父と子と聖霊の御名により。アーメン。」と言う祝福を与えます。それで見つけるのは、愛を初め、キリストの平和と赦し、神様との和解、希望などです。

洗礼を受けた人生はぬれている人生です。私達がいつも舟から落ちるからです。しかし、信仰の人生によって、泳ぎが上手です。イエス様は私達のライフガードです。もしかしたら、私達はほかの溺れそうな人を助けて、その人を主の元に連れていき、救いの水のバプテスマまで連れて行くでしょう。

アーメン。

「父である神と私達の主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。アーメン。」

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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