「イエスは涙を流された。」
ヨハネ11:35

受難節第5主日、2008年3月9日
ヨハネ11:1−53

聖書の一番短い一節はどこにあるか分かりますか。それはヨハネ11:35節で、「イエスは涙を流された。」です。教会学校の生徒はこれが好きです。なぜなら暗記しやすいからです。私はこの節が好きなのは、この小さい言葉の中に福音が全て入っているからです。

今日の福音書の日課は、ヨハネ11章です。この美しい話しでは、イエス様が親しい友達であるラザロを甦らせます。イエス様は、ラザロの姉妹達、マリアとマルタと話した時、あたたかい慰めと希望の言葉を語りました。その言葉は、私達にも慰めと希望を与えますので、よくお葬式の時に読まれています。イエスは言われた、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

イエス様はマリアをじっと見ました。マリアは悲しんで泣きました。それで、イエス様は心に憤りを覚え、興奮して、彼も泣きました。その後、ラザロを復活させました。

私は、このヨハネ11章を何回も読んだ事があります。今回、この説教の準備のため読んだ時、私に向かって飛び出てきた言葉は、ヨハネ11:35節でした、「イエスは涙を流された。」どうしてでしょうか。もしかしたら、去年、私自身が、自分の弟の葬式で泣いたからでしょう。しかし、今度、この箇所を読むと、イエス様が泣いているので驚きました。我々男というものは、強い方が好きです。泣く事が嫌いです。自分の涙を他の人に見せたくありません。しかし、人々はイエス様の涙を見ました。11:36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言いました。11:37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいました。
この言葉の対比、くらべることは、イエスが力強い奇跡を行なう人と、友のために悲しむ人の対比です。この反対は:この世に来られた神の子としてのキリストと、この世に来られた人の子としてのイエス様です。泣く事は弱さのしるしですので、全能の力強い神様であるイエス様が弱さを見せる事は変であると感じます。

しかし、聖書の神様は、泣く神様です。イエス様は泣きました。神様は、この世を愛するほど、御子をこの世に送りました。今日の福音書の話しの中で、イエス様が泣く事は神様の愛のしるしです。神様は、この世の罪と悪の為に悲しみました。ですからイエス様を遣わししました。その愛の為に、イエス様は自分の友達の為に泣きました。ルカ19:41節で、十字架上で殺される数日前に、エルサレムの町に行く途中、遠くからその町を見て泣きました。イエス様はその町を愛しました。その町には、神様の神殿がありました。しかし、数年後、ローマの兵隊によって全滅にされます。イエス様はそれを知っていて、その町やその中にいる人々の為に泣きました。イエス様は人が死ぬ事の為に悲しみました。罪や悪の為に悲しみました。これこそは愛です。そして、その多いなる愛の為に、イエス様はご自分の上に世の罪を取りました。十字架上で死んで、3日目に甦ったのは、すべての信者達に赦しと命を与える為です。

親しい友達ラザロの為にイエス様は泣きました。イエス様は私達をも愛します。私達が死ぬと、しみます。私達の人生を不幸にさせる私達の罪と悪の為にイエス様は悲しみます。十字架上のイエス様は、ご自分の上に、この世の罪を取って、この世の悲しみをも取りました。それで、一番罪深い人間になりました。それで、一番悲しい人になりました。イエス様は、今も、この世の状態の為に悲しみます。天に上げられても、誠の神であるイエス様は、同時に誠の人間です。ですから、私達の悲しみも喜びも知ります。私達の希望も私達の失敗も分かります。私達の笑い声も私達の涙も分かります。

イエス様は泣きました。しかし、復活の喜びの日が来ます、その時、私達の涙を拭いさって下さいます。

最後に。イエス様は私達を愛して下さいますが、この購い(あがない)と救いの福音が有るので、神様は私達の事を諦めないと教えます。私達は悪と罪の為にすぐ諦めます。罪や不正義や不品行に対して自分の心を閉じます。罪から目をそらして、他の人をそのまま受け入れようと思います。しかし、イエス様は違います。ラザロのお墓の洞穴に行きました。「その石を取りのけなさい」と言われました。「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれました。「ほどいてやって、行かせなさい」と言われました。これこそは贖いと救いの福音です。この世の悪を大目に見ません。ですから「福音」は「良い知らせ」です。私達はこの福音を述べ伝えます。死んだ人を復活させる力を持ちます。私達の渇いている骨に新しい命を吹き込む事が出来ます(エゼキエル37章)。キリストの死によって、私達の洗礼によって、私達は永遠の命の為に生かされています!

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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