2012年7月8日
旧約聖書のヨブ記は、一つの劇のように読む事が出来ます。そこには対話とナレーションがあります。ヨブと名付けられた実際の人がアブラハムとヤコブの時代に生きたかも知れません。その場合、ヨブ記は彼の人生に基づいている書物で、彼の人生の苦しみと格闘について語った物です。確かにこの本は聖霊によって書かれた本です。人間の愚かさと神様の知恵が書かれています。人間の冷たさと神様の愛があります。又、サタンの悪と主なる神様の憐れみがあります。
ヨブ記の最初はヨブを紹介します。とってもけいけんで神様を信じる人です。又、とっても金持ちで成功した人です。主なる神様とサタンとの対話があります。神様はヨブの事を誇りに思っています。しかし、サタンはヨブをテストしたいと思います。「サタン」と言う名前は、「告発者(こくはつしゃ)」と言う意味です。もしヨブが苦しめられましたら、ヨブは神様を呪いますか。神様を冒涜するでしょうか。ヨブはとっても金持ちです。そのすべての財産が彼から奪い去られましたら、ヨブの幸せがその富にあるのか、それとも神様にあるかをためす事が出来ます。神様からの許しを得て、サタンはその働きを始めます。まず、ヨブの家畜が全部泥棒に奪われて、十人の子供全部が集まった家が嵐によって破壊されて殺されました。ヨブは大変悲しみましたが、このように言いました。ヨブ記1:20−22。
20ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。21「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」22このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。
ヨブはそのテストに負けませんでした。それでサタンは更にヨブをテストする為に、体に大変な痛みを送りたいと思いました。神様はそれを許しましたが、サタンはヨブを殺してはいけませんでした。ヨブはこのように反応しました。ヨブ記2:7−10。
7サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。8ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。9彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、10ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。
ヨブの3人の友達が訪ねます。一人ずつ長いスピーチをして、ヨブは各スピーチに答えます。それは裁判のようです。3人はヨブを罪人として告発して、ヨブが罪人であるので神様は彼を罰すると言います。しかしヨブは自分の無罪を強調して、神様が自分を罰する事が正しくないと言います。それでヨブはその三人のサタンのような告発者 に対して腹を立て、神様のやり方を理解する事が出来ません。これがヨブ記の中心です。その質問とは、どうして良い人が苦しむかと言う問題です。3人の友達が言うのは、ヨブは確かに悪い人か罪人であるので、神様の罰を受けます。しかしヨブは自分が無罪であると言います。なぜヨブが苦しむのか誰にも分かりません。最後に神様は語ります。38章から41章までを読めば、とっても奇麗です。神様は全世界の全能の造り主です。神様はすべてを知ります。人間は神様の働きを理解するのは不可能です。サタンがヨブをためしている事をヨブに教えません。それは必要ではありません。ヨブは神様と神様の知恵を完全に信頼しなければならないからです。
最後にヨブは自分の苦しみの理由を探すのをやめます。そしてけんそんに神様の知恵を受けいれます。言います、ヨブ記42:1−6。
1ヨブは主に答えて言った。2あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。3「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。私には理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。4「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」5あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。6それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。
最後に神様はヨブの財産を2倍にして返しました。新しい10人の子供を与えました。そしてヨブは140歳まで生きました。
ヨブ記のメッセージとは、「自分がどうして苦しんでいるか分からなくても、神様を信頼しなさい」という事です。神様を信頼しなさい。神様はその理由が分かります。御自分の知恵によって神様は私達を愛します。ですから私達には希望があります。
私自身にはヨブと同じ経験がありません。彼の痛みと悲しみと怒りを想像する事しか出来ません。彼は正義が欲しいと思いました。その意味が分かりたいと思いました。自分の苦しみの理由が分かれば、それを受け入れます。それで希望を持つ事が出来ます。
例えば私の背中が痛いです。どうしてでしょうか。昨日、重い家具を動かしたからです。では痛み止めの薬を飲みますと、明日になりますと楽になる希望があります。
先週の説教のテーマは希望でした。病気で死にそう12歳の娘のお父さんの希望と12年間病気で患った女の人の希望です。イエス様に希望がありました。イエス様の愛と憐れみを望みました。
聖パウロには多くの問題がありました。伝道活動の為に問題がりました。又、言われる「身に一つのとげ」(2コリント12:7)の問題もありました。私達はその問題が何であったか分かりませんが、確かに痛い体の病気か怪我でしょう。癒してもらうように祈りましたが、最後に神様からの事として受け入れました。その時神様の憐れみと愛を信頼しました。自分の心に平安がありました。希望を見つけました。
この点では聖パウロとヨブは同じです。神様の知恵を信頼した時に希望を見つけました。ヨブは造り主なる神様を見つけました。聖パウロは救い主なる神様を見つけました。私達はこの同じ神様を見つけます:造り主であり、救い主であり、助け主であります。私達はイエス様を見つけました。イエス様はヨブのように苦しみました。イエス様もサタンに試されました。しかし、ヨブと違って、イエス様は神様の御計画を知りました。サタンが何をしているか分かりました。ですからイエス様には希望がありました。荒れ野で誘惑された時も望があり、逮捕され裁かれた時にも希望があり、十字架に釘でつけられた時にも希望がありました。この希望が試されましたが、確かなものでした。3日目に復活しました。
私達にも同じ希望があります。人生にはどんな事があっても希望があります。即ち、神様が私達を愛して私達を大事にする希望です。神様の知恵とは、宇宙を創造された知恵です。その全能の知恵は私達を守って私達を支えます。この希望はイエス様の十字架に基づいています。私達が洗礼を受ける時のイエス様の約束に基づいています。聖パウロが言う通りです。「神様の恵みは自分に十分である」(2コリント12:9)。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会